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明治22年、五和村の成立

(庭のムラサキシキブの花)

渡辺眞一氏の調査で、少し時間が取れたので図書館に行ってみた。金谷町史の本編によると、明治22年施行の町村制により、金谷では金谷宿、金谷河原町、牧之原村、菊川村、神谷城村が合併して金谷町が出来、一方五和では、横岡、横岡新田、島、牛尾、竹下、番生寺、志戸呂、大代、神尾、福用、高熊の11ヶ村が合併して五和村が出来た。(この金谷町と五和村が合併して、旧金谷町となる)

山内一豊が掛川城主だった時代に、大井川では治水のために天正の瀬替えという土木工事が行われ、大きく蛇行していた川筋が駿河側にまっすぐにされ、度々洪水に見舞われていた島田宿は洪水が大いに減った。また遠州側には広い河原が残り、その後、耕地として開発された。

横岡、大代、志戸呂、神尾、福用、高熊の六ヶ村は山付の元からあった村で、横岡新田、島、牛尾、竹下、番生寺の五ヶ村が天正の瀬替え以降に新田開発されて出来た村だという。「五和(ごか)」はどうやら後者の五ヶ村が共同で事業を行ったときに付けられた名前で、その時は五つの村の集まりであったが、合併するときに六つの村が加わって11の村の合併となった。しかし名前は響きがよいと「五和村」が採用された。

五和村が出来た当時は、村会議員は選挙で選ばれ、村会で村長と助役が選挙で選ばれた。なお村会と助役は県知事の認可が必要であった。村長には司法警察の補助、兵役、戸籍、伝染病予防、河川、道路、小学校など、多くの国、県、郡の行政委任事務が課せられた。

現在の地方自治とは比較にはならないけれども、あえて比較すると、村会議員、村長、助役など原則として名誉職で無給であった。したがって、自治の担い手は名望があり、名誉のため無給で受けられる有資産者に限られた。選挙で選ばれる議員を家業のように代々引き継いでいると批判を受ける現在の地方自治の担い手と、どちらがどうなんだろう。どちらの方が住民本位の地方行政になるかという点が問題であろう。

さて渡辺眞一氏は明治22年6月に五和村初代村長になり、明治26年5月まで4年間村長を務めている。

短い時間の調べだったので、その程度で終った。金谷町史には「初代五和村長渡辺眞一」として写真が出ていた。紋付羽織姿で年齢が40歳ぐらいであろうか。やや面長で、断髪はオールバックにまとめられ、額が大きく出ている。口の幅ほどの口ひげを短く生やし、眼は涼しい。無駄な肉は付いておらず、理知的、思索的な人物に見える。その後、どういう人生を送った人なのだろう。他人の御先祖さんながら大変興味がある。
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