katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

kameyaさん教室

2016-08-28 07:59:34 | モザイク教室
今日は月に一度のkameyaさんの出張教室で3人だったのね。それでは1人目・・・前回くまの可愛い作品を2年位掛かったぺきぺき作品を終えて、いよいよ初めての1cmタイルの作品へ・・・って1回目。まずは硬さに慣れる為に、同じような繰り返しが悩まずに済むし、色も茎なら沢山いらないし・・・と、

そんな理由でスタート。第一声は、あっ硬いぃぃ・・・・って。まっ良くある事なのね・・・ならば次のセリフは?って事になると、これが謙虚に向き合っている人ならば、すぐに感、感受性、感性・・・どれでも良いが、それらから、ここで1cmタイルをやっている作品を見て、これで作っているの?

凄いぃ・・・って、改めて思ったりする。勿論、凄いとは思ってはいたが、実際に体験して本当の凄さを知る事になる。その時に、偉い事に手を出しちゃったな・・・と思いつつ、何年掛かっても・・・って前向きになれる人と、どうしよう・・・と後ろ向きになる人がいたりする。

ではこの方は?と聞かずとも判るのは、2年も掛けられた作品作りを出来た・・・と言う実績。つまり先を急ぐ作り方では無く、素敵な仕上がりであって、じっくり取り組むが出来た人になっているから、硬さにさえ慣れれば、掛かる時間に惑わされる事は無い。

ただそんな中、体の痛みがあって病院に行っていた・・・・との事。ここは大事で、直接痛みを感じるものは判りやすいが、上手く行かなくても精神的なダメージを受ける事は多々あるのね。本気な作品であればあるほどね。これが1回で完成するものなら楽しかった・・・と楽って文字でダメージは0。

出来れば良いだけだから。もはや出来れば良いはとっくに卒業しちゃったので、結果が出ないと納得出来ない人になりつつある。それらを踏まえて体の痛みは俺には判らないので、きつい時はきついと言って下さい・・・ただ今日から始める事はそもそもきつい事ばかりになるかも知れないんで・・・。

それは当然で軟球と硬球では野球もテニスも同じ分野であっても色々と違う事だらけ。勉強だって算数と数学では変わって来る。つまり難易度が変わって当然。ただここも大事で、変わった事を意識出来るのと、出来ない差は技術うんぬんの話じゃなくて感じる・・・って誰にでも出来る事。

そこを感じない・・・ここは大きな差になる。そう言う点では感じる・・・って第一段階は見事に硬い・・・って事だけで、みんなの作品の凄さに気が付いた・・・そして出来るのかな?と戸惑い、じっくり取り組もう・・・時間が掛かっても・・・と作る1日目の姿勢がきっちり出来ている事になる。

ただ出来ない事の壁にぶつかった時、体の痛み七日?心の痛みなのか?は本人にしか判らない・・・これが健康ならその判断も想像出来るのだけれど。
いずれにせよ、痛みに関わらずこの仕上がりでここまで進めば何にも言う事無しであって、逆に健康なら状況はもっと良いかもね・・・って言うと、

先生ぃ、変なプレッシャー掛けないで下さいぃぃって、苦笑いしていたのね。あはははは。では次の方は・・・。


この方はステンドを習っているらしく、更に自宅でもモザイクをやる・・・って方なのね。こんな背景があって・・・と1枚目の画像を見ると、結構な仕上がりに見えたりするし、初めての1cmタイルなのだから・・・って言うとまずまずでしょ?と思うのだけれど・・・本人は納得していないのね・・

では何処が?何が?となるのだけれど、それが2枚目の画像になるのね。それが大きな葉っぱと他の葉っぱの違いなのね。大きな葉っぱはここでやったものなんだけれど、来た時は前回よりも良くなったと思う・・・って自宅での葉っぱの是正にいくらかの手ごたえあり・・・って話だったけれど、

じゃこんな事を意識して見て・・・って事で出来たのは大きな葉っぱ。何がどう違うか?は各々の判断で良いけれど、意識するのは色では無く形。色に頼らない事。しかも進む事より美しさ。何がどう?何処が素敵か?それを感じられるか?られないか?は大きな差になる。

これを感じられるか?られないか?はこだわり度合いとなるのだから、同じじゃん・・・ってしか感じられないと、そこ止まりで良い事になる。いかに違いを感じられるか?は腕じゃなくて目なのね。つまりモザイクをやっている、やっていないは一切関係の無い話。

そんな話がこの方の課題になるのね。例えば1人目の方はここでしかやらないから、きちんと確認の元進む事になる。だから失敗の確率は少ないけれど、進み具合は悪くなる。逆に2人目の方は自宅で進める時間とここでやる時間は大きく自宅の方がある。

つまりここできちんと理解出来ないで進むと、明らかに進み具合は良いけれど、ここでの質と自宅での質の差が歴然と言う事になる。だからこそ目を養って、何がどう違うか?何処がどうなっているのか?・・・を感じられるか?られないか?が大事になって来る。

しかもステンドならパーツが大きい分、進み具合が良いけれど、モザイクは細かい・・・って意味なんで、当然切ればより小さくなる・・・。これはこれ・・・と切り替えられると良いんだけれど。ただ感の良い人なんで次回また何か変わっている気がするのね。

それともう1つはこうしてまた1つ上手くなった時、昔の葉っぱが嫌いになって行くものなのね・・・でも剥がしちゃダメだから・・・もしこれから上手くなって、もっともっと・・・となるとキリが無い。それとね、本当に上手くなったら、下手な葉っぱを作って・・・と言っても作れない。

例えばかぐやのように上手くなると、1つ目も1年後も葉っぱの質は同じ。それは上手いから。でも実際の葉っぱって全部同じかな?・・・つまり1つとして同じ物なんて無いのね・・・実は。それを枯れたみたいに・・・とか言って、色を変えても、結局どれも一緒に作っては模様になっちゃうのね。

つまり本当に上手くなったら、いかに違ったものが作れるか?になるのね。そう言う点では今の俺にはこの方の葉っぱは新鮮に見えるし、これからの葉っぱいかんでは、今までの葉っぱも生きて来ると思うのね・・・だから剥がしちゃダメなのね。

では最後に棟梁。


まずは指を怪我していた・・・彫刻?って聞くと、はい・・・って。今まで知り合ってから一度も彫刻で怪我をしたのを見た事が無い。だからもう1つ質問をした。仏像彫刻?それとも趣味の方?って言うと、趣味の方・・・って。なるほどね・・・・大体想像は付いたのね・・・。

まず趣味の方とは何?つまり仏像彫刻は先生がいて、図面があって、そこはどの彫刻刀を使って・・・と先生が指導すると思うのね。つまりあんまり道具を変な使い方をしていれば、先生が注意をしてくれるはず。だからそんな事は無いな・・・と思うと、やはり趣味の方。

だとすると、厳格じゃなくてラフに出来るんだから気持ちは楽で出来るはず。ならば油断何て事も考えられるが、そんな人ならとっくに何度もそんな事を見ていたはず。

つまり明らかに何か心が落ち着かない事が重なっていて、そんな中で起こったと思われる。そうなると、俺が知っている情報でなら、あれとあれみたいな想像は付く。勿論、そこにまた加えて新たなものがあったのなら、益々そんな事が起こっても不思議じゃない。

そこをきちんと確認する勇気があれば、是正は自ずと見つかるし、もっと言えば、何故そうなったか?さえも今後に役立つはずなのね。こんな時に自分はそうなるってね。そんな中、指を怪我してもモザイクがやりたくて、でも質は落としたくない。

そんな事を考えて文字をやると言ったものの、習慣とは恐ろしいもので、本体の大きいものを始めてて、どうしたの?って声を掛けるまで気が付かなかった。選択したまでは良かったのにね。更に文字を黒は地味だから茶色かな?

と文字のはねやら、止めなどをしっかり切り始めると、何かなぁ~って。当たり前なのね。
要するに自分の言った事に忠実に辿って行くと、まず指を怪我した。だから満足に出来ないかも。そこで文字ならと、ここまでは俺もそう思うのね。

すると、黒は嫌だから、と単なる好みに走った。もはや失敗街道へ・・・になる。何故ならこれはただの文字では無く、本体と合体する小物なのね。つまり家ならトータルコーディネートと行きたい所。まず置いて見て・・・って話。すると、気が付いたのね・・・。

それは、単独で考えてしまって、色だけで決めたから好みとして黒は嫌だから・・・と茶色にした。ただ何故茶色か?となると、馬は茶色だから・・・と言うのね・・・・こらこら、じゃゾウやイルカは汚いグレー、水色じゃないし・・・。ただ理由付けして考えた事はとても良いけれどね・・・。

合体したら縁取りのペンキも茶色・・・文字とかぶるのね・・・すると、あっ今までやっていた十二支の色を文字にすれば良いんだ・・・って。
そうなのね。何も実際の色にする理由は特に無い訳で。そうね、そもそも調子が悪い日に茶色・・・って。

そんな日は気分転換とか、楽とか、いずれにせよ、楽しくならないかな?探し。そもそも字の達者な娘さんが描いてくれた文字を俺が彫った下地。この時点できちんとが2度続いた事になり、きちんとを繰り返したいのなら、おふざけ無しを続ければ厳格さを強調出来るだろう。

しかしながら作っている十二支はとてもポップで可愛いもの。つまりきちんと彫った通りにしなくても、こうして可愛い文字の形のパーツでも彫った形がしっかりしているから、しっかりした形の文字にポップな色にポップなパーツ・・・ってアンバランスさが可愛さを引き立たせたりしないかな?

それを仕上がった時・・・つまり単独で考えずに完成した時の場所に置いて考えて見る・・・・ってとても単純で当たり前の事のアドバイスをしただけなのに、何も言わなくても、あっ・・・って気が付いた。そこに気が付けば、切る事が上手い棟梁ならすんなりここまで出来た・・・。

要するに何度も言うが切るって言う技術がある人なのに、そこばかりに頼っているから考えるって言う事が見劣りしている。そうね、例えば料理だとして下ごしらえの切る段取りの素早さを身に付け、味付けは感・・・やって見ないと判んないって言っている感じ。

要するに事実は、指が痛かろうがモザイクがしたい・・・って気力は持っていた。ただ面倒な事はしたくない・・・何しろ調子が悪いんだから・・。
今の私は・・・だから簡単なもの・・・あっ文字・・・えっとどうしようかな?色・・・・馬だから・・・茶かっ。

さっ、切るかぁ・・・ここはスッと入って、止めて抜く・・・みたいな書道の書体のように・・・やっぱりここまでの長さは・・・ここは1パーツの方がきちんと奇麗だろうけれど・・・細かくすると折角の書体が・・・ただやって見ると、ん・・・何かつまんない。こんな感じだったんだろうね。

モノ作りは自分自身とはこう言う事なのね。技術を身に付けてもやるのは自分。楽譜や図面通りにやるのはただの真似。やっている事はオリジナルなのだから、きちんとその作品の絵を描いた自分に聞けば良いだけなのね。ねぇ、どう言う気持ちで考えていたの?ってね。

その時にもし今までやって来た自分をきちんと見る事が出来たのなら・・・・あっ私は可愛い十二支の作品を作りたかったんだぁ・・・と気が付く事が出来れば、今の自分の気持ちが晴々するようなポップで明るい気持ちになるような事が浮かべる事はたやすかっただろうね。

それをまず置いてみ・・・で判ったんだから、まだまだそれ程調子が悪い訳じゃない。しかも多少崩れていても、指を怪我していても、ここまで切る技術がある。芸は身を助ける・・・に当てはまるようになっている。物足りないのはそれを生かす自分自身。

では棟梁に具体的に提案なら、まず2人の娘さんと無くなった犬との思い出の場所について徹底的に話す事。そして3人だけが判るとても思い出になる場所やエピソードを箇条書きにして、その中から出来そうな事をピックアップして、そのエピソードを持ってしてアトリエに来る。

ただみどりとの相席を選ぶ事。そうすれば新作の下絵は完成するはず。こんなに具体的な提案なのだから、後は棟梁の問題なのね。俺からの棟梁へのアドバイスはおしまい・・・何故なら指が直れば、この十二支の作品に教える事はほぼ無い。新作へ向かう時の失敗や抜け出し方はみどりに聞けば?

勿論、また遊びの本気なんて言うものを作るのかも知れないけれど・・・・。ここもあえて是正するのなら、本気の遊びの間違いなのね。遊びの本気では本気なのね。じゃおふざけしずらい。本気の遊びは遊びだから、失敗覚悟のチャレンジをしやすい。

そもそも大作に入ればそんな余裕は無くなるのだから、遊びと言うなら遊ばないと・・・。そもそもそこが違っているのね。本気なんて大作に入ればすぐにやって来るのだから・・・。俺は指は直せないが、これからも付き合って行くのなら、心は叩かせて貰う・・・立て直して・・・そろそろ。

心が後ろ向きな時、きちんとちゃんと・・・はとても厳しい。それを何がどれが?と自覚するのなら、危険は回避しないと。いつもの調子のまま、いつも通りにやれば何をやっても結果は出ない。むしろ失敗した自分をまた責める。まず悩むよりも考える癖を付ける事。

そして小銭ポイントをかき集める。日常のあっラッキーと思える事をね。どんな些細な事でも。あっ雨が上がった・・・ラッキーみたいなね。そしてまだ付いている・・・かもってね。何でも良いから。ただそれをラッキーとも思えないのなら、話はおしまい。

俺は1人ずっとそうして来た・・・ってアドバイス。



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