katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

色々あってタイトルをどうしたら良いのかな?・・・って1日

2018-03-31 01:18:05 | モザイク作家
今日は電話スタート。1つはモンゴルの額装の件。請求書をおこして、準備も終えて連絡をして来月早々に引き取りに来て頂く事になったのね。その時はいつもと違って1枚目地の練習をして貰って、繋ぎ目の張り方みたいな説明をさせて貰ったり、色々とあるので時間に余裕を持って・・・。そんな話。

もう1つは先日シドさんに紹介して頂いた方。実は鳥の作品にご興味を持って頂いたらしく、展示場所から持って来てメンテナンスって感じな事が終わった事もあり・・・そこで連絡。ちなみにこれ。


すると、今日見にいらっしゃるとの事。そこでそれまでの間、亀有カルチャーの方と、リピーターさんの下地の作成・・・って訳でトップ画像。
そんなこんなでいらっしゃると、トントン拍子で話は進みご購入される事になったのね。

今日は何か色々とあって、気疲れしちゃったのね・・・何も悪い事は無かったんだけれどね・・・。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キウイとお母さんの相席教室

2018-03-30 07:54:02 | モザイク作家
今日はキウイとお母さんの相席教室。キウイはドレスに手がぶつかった所に来たんで、いよいよ手に入ったのね。お母さんは右下の最後の咲いているバラ。それが高洲のサークルとは違ってアトリエにはタイルがいっぱいある。そんな中、新色に手が伸びたのね。


非常に単純な話だけれど、赤いバラを作るのだから、赤は沢山使いたい。所が絵画ならその赤を薄めたり、濃くしたりして濃淡で描いたり出来るが、モザイクは色を混ぜられない。そこで濃い部分を紫やエンジで薄い部分をピンクや白で・・・みたいにね。所が1㎝タイルには色に片寄りがあるのね。

例えば緑や青、ピンクにはバリエーションあるけれど、バリエーションの少ないものもあって・・・そんな中、わずかながら新色も出たりする。その中にピンクがあって・・・使いたくなるのも判るのね。ただ今まで使った事の無い鮮やかなピンクを急に使えば例え2.3粒でも影響は大きいのね。

例えば赤より濃く見せる紫、ピンクより明るく見せる白・・・こんな関係の中、鮮やかなピンクは、赤をも喰ってしまう位の影響力。たった2.3粒で。それは、単なるピンクでは左程の影響は無いが、鮮やか・・・ってここ。そこが影響力があるって事は良くも悪くも大きいって事なのね。

こう言うと使うの辞めようかな・・・って人もいるだろうが、使わなくても普通に終わるからそれはそれで安定した終わり方になる。ただ、使うとなると今までとは違う異物が入ってくる違和感のように見えるのね。ただ綺麗なだけで・・・つまり赤いバラがメインだったのに、2.3粒でメインになる・・・

そんな感じね。その時に起こる人の心理って言うのは、あっ、これ使いたい・・・その時には、もう赤を目立たせるって言っていた過去の自分はすっかり忘れて、今の気持ちのみに働いた・・・そんな心変わり・・・そんな気分なのね。では気分で変えたけれども、ピンクは前フリとして入ってもいる。

がしかし、鮮やか・・・の付くピンクは初めて。そんな状況確認をして、ここからは将棋や碁にも似た考え方で、そんな場合に起こる事は、常に全体を見て・・・と指導はしているけれど、ついついそこだけを見て決めたりしてしまうのね。大抵そんな場合、作る事に夢中で、自分の好きな色を使って、

さて今日は終わりにしようかな・・・と思った時、初めて離れて見る事になった時に、全体を見て・・・ここが変みたいになったりする。それは舞台を見るような感覚で、一列目で見る場合は、人の顔を観に行く感じだが、芝居を見る場合なら、全体を見渡せるような後ろに下がった方が見渡せる。

全くそれと一緒で、張っては引いて見て、また張って・・・とやれば、自分の作った作品がどう見えるか?と客観的な見方が出来る分、仕上がりも想像出来たりもするのね。それはまだ技術論以前の話であって、今回の場合は、ここまで作れるお母さんの話なんでもっと高度な話なのね。

では、異物にも思える鮮やかなピンクをどう使いこなすか?となった時、色決めみたいな事をするな・・・って指導もあったりする。そうね、今の流行りなら、ちはやふるに登場する団体戦の、ちはやちゃんでは無い女の子がこんな事を言うのね。競技カルタは下品で意味も無く競う的な・・・ね。

全くその通りなのね。ただ頭の1文字の早取りで良いのなら、あんな長々読む必要は無いのね。要するにカルタ自体に意味があって、その意味も判って・・・みたいな事を言うのね。それが単なる1.2回戦で争うような人達ならば、獲る事に必死で良いと思うが、段々と上手くなった場合、

一体その先に何をどう上手くなるつもりなのか?なのね。その姿勢として、単純に想像力・・・つまり1つ先を読むって事に繋がって行くのね。人のやる事ってのは全てに置いてほぼ一緒であり、何も考えずに感や偶然ではその先の上手さには繋がらないのね。

そこで切る技術が上手くなった人達は、その綺麗に切ったパーツをどう使う?とか、アトリエ以外でやっていた場合とアトリエの違いは何か?となった時、不自由と自由の関係だと思うのね。単純な話ならアトリエ以外はピンクを用意するのは俺・・・つまり普通の定番だけを持って行くのね。

それがアトリエなら豊富な色が見渡す限りある・・・って事になる。それをあるから自由で、無いから不自由って単純に考えるとそれは滑稽にも思えたりする。実はそんな単純じゃ無いから難しいのね。人って。常に言っている良い事と悪い事は背中合わせ。つまりここにもあるって事。

色があるって事は自由に選べるが、あるって事は迷うし、心変わりもする。しかし無いって事は不自由だが、最初から無いから、最初から最後まで一緒でありあるいみ無いから自由。考え方1つでどうにでも変わって来る。これを踏まえて考えると、アトリエのみでやっていたとしたら?

別の会場では不自由になるし、逆に別の会場からアトリエに来れば自由に選べる事になる。しかし、途中から・・・となると、今までどちらか寄りで作っているから、不自由になったりもする。簡単な理屈なのね。そんな状況確認さえすれば、そんな状況をどう打破するか?って置かれた環境の中、

工夫が必要になるのね。ここなのね。本当の意味での技術は。常に自分の都合で気分で変えて上手く行かない・・・では無くて、その中でどうする?って事が、切る事が上手くなった・・・って言われている人に必要な技術なのね。

おっと心持ちの話ばかりで詰まんない事になりそうなんで、それじゃまとめると、鮮やかなピンクが左下のみで使われるから目立つのね。と言う事は、そこだけに眼が行ってしまうからであって、あっちこっちに散りばめられれば、人の眼は分散する。つまり減らすんじゃなくて、増やすなのね。

幸いつぼみがあっちにもこっちにも良い位置にある。つまりそこにもなるべく大きく使えば、そのピンクの・・・鮮やかって言葉が散りばめられるに繋がると、鮮やかで赤の邪魔する存在にも思えるものが、逆に赤を更に鮮やかに照らす存在にもなるうる・・・ってな話。

モノの考え方ってのは何処から始めて、何処に着地するか?って事だったとしたら、赤いバラを作っているのだから、どれを引き立てて行くか?であり、邪魔をする事では無いのね。ただライバルがいるって言うのは、より向上にも繋がるが、バランスも乱れる。

作り手って言うのは生み出す人なのね・・・人の関係性では難しいだろうが、作り出すものなら、自分の考え1つで素敵なハーモニーにもなろう。しかし、ひとたび崩れれば、オーケストラのように色んな楽器で色んな人がいたとしたら、まとめるのは指揮者・・・つまり自分自身。

少ない色なら単純で済むが、沢山の音色をどうまとめるか?作り手は指揮者・・・感だけでは使えば使う程、一貫性が無ければ無い程、ズレが生じる。人のやる事はこうして、ほぼ全てが一緒って説明。あぁ、文字って面倒だわっ・・・何処まで伝わるか、判んないけど、ぶっちゃけちゃえば、

良くね、センスが無いだの、絵が下手だのって言って、やりもしないで無理って人がいんのよっ・・・やりたくないって言うのはそれで良いんだけれど、もしやりたいのに・・・って人が言っているセリフなら、こんなにナンセンスな話は無いのね。だってやった事無いのに判んの?って話。

簡単な話で、センスなんて想像力みたいな話なんだから、じゃ考えるの辞めれば良いじゃん。これで1つ悩み事が消えた。じゃ真似すれば、コピーで良いじゃん。これが最初は誰でも真似って話。つまり楽しむのは、タイルを切るって新鮮な行為を純粋に楽しめば良いのね。

切りたく無ければ並べれば良い。そんな人は色を楽しめば良い。いくらでもハードルは下げられるのね。ただ問題はどれを選んでも料金は一緒だって事・・・指導のね・・・ここなのね。その時に、最初は相談相手ってよりも話し相手くらいで十分だったりするけれど、段々と高度な事を必要とする

のね・・・しかも、本人の自覚無く。だからこっちも、その説明をすると、その説明疲れで、やっぱり辞めます・・・って言ったりもする。逆にそれなら言わないで置こうかなぁ・・・と思うと、聞かれるから答えると、自分の答えは決まっているのに、どっちが良いですか?みたいな事になって。

まっ、ハンドルネームがあるような人達の指導って言うのは、一筋縄では行かない・・・って話。それ位、複雑な事を質問されたりするのね。人の心の中に入ると、入った分、痛みも感じる訳で・・・疲れも倍増する。それが本気ならこちらも本気になれるが、じゃ辞めときます・・・ってあっさりでは、本気のスイッチは中々入れられないのね。ただ、あくまで趣味だし、もう十分な域には達していると思うのだけれど・・・・。

何処まで指導が必要なのか?・・・一体それは誰が決めるんだろう?って話。

いずれにせよ、ここまで上手いと欲も出るし、より良くしようと思えば難しい事も出て来る。しかし、難しいのは技術うんぬんの前に、自分の心持ちなのね。大作って言うのは最初の自分から随分と時間が経っちゃうからね・・・・最初の自分のまま行けるのか?変化したらどう変化させるのか?

一番やってはいけないのは、今までやった自分を台無しにしてしまう事。これだけは必ず注意はする・・・ただね、あくまで注意。選ぶのは本人じゃないと、やらされた・・・って気持ちが残るから。それにも良い事と悪い事がある気がするのでね・・・あはははは。

いずれにせよ、ここまで上手いと中々手ごわいのね・・・指導が。って話なのね。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モンゴルの額装完成

2018-03-29 01:04:13 | モザイク作家
携帯のドタバタ劇も一件落着。手書きで写せたアドレスも深夜に微妙に回復した隙に、赤外線で全部写せたりして・・・何事も無かったような朝は残りの目地をして、ペンキの修整したら1枚残して完成となったのね。ちなみに1枚残したのは取付をする美術会社の人の練習分として・・・。

その後は、今度は繋ぎ目のタイルを切って・・・ここはこれ・・・なんて番号振って袋詰め。結構良い時間になっちゃったのね。ただね、終わったって事はサヨナラって事なのね・・・しかも今回は本当の意味での完成は見る事も無く・・・引き渡しまでの時間のみなのね。

こんな時こう思ったりもするのね・・・いつもほとんどかぐやの場合なら、最後まで見る事無い手伝いだったりする・・・だからこんな気分なんだろうな・・・とかね、他には出来たと連絡して引き取りに来た時に、どんな反応があるのか?・・・とか、勿論作家さん方はどんな風に見るのか?とか、

お客さんとか・・・そして現地の人達・・・・こうなって来ると、いつも言うように自分の手から離れた時、評価になったら人のモノ・・・もう自分で作ったものでも、何処かで他人事のような気分でもあったりもする・・・。いずれにせよ、色んな事が浮かんだりする・・・。

老婆心と言うのなら、無事付くのだろうか?・・・なんて事もあったりして・・・いずれにせよ、虚しい感じもする。ただそれも納品までの間だけ、そんな気持ちになるだけで、それもまた薄れゆく記憶のように、段々と0にして行くような感じで、作った事すらも忘れるような・・・・。

要するに気持ちがこもる・・・なんて言葉があるが、例えば我が子のようにと思うのなら、結婚をするって事を喜び100お祝いの気持ちになれるか?と言ったら嘘だと思うのね。1でも2でもわずかながらの戸惑いや、寂しさ、心配やなど、明らかに喜びとは対照的な気持ちを抱えると思うのね。多分・・・

それはそれだけの労力や、共に過ごした時間など、言い尽せないものがあるからで、簡単に言えば、一生付き合ったり向き合えば、それだけの喜びと悲しみをその分だけ持ち、2.3日の滞在みたいな短時間の付き合いだったり、作品だったりすれば、その短い時間の喜びや大変さを感じるだけ。

そんな違いがあると思うのね。つまり、この作品もそれだけの時間分、ダメージを受ける事になる・・・。そこに当座、完成を見る事は無いのだから、喜びらしさは感じる事は少ない分、ダメージの方が大きい。要するに予定通り納品が出来る・・・事務的な気持ちで割り切って行く・・・そんな感じ。

ではここから、どう気持ちを立て直すか?になると、失敗をする事の少ない生徒さんの下地で、気分転換と言ったら失礼だけれど、色々と溜まって来た事もあって、それをやったりすると、いきなりまた作品作りって割り切れなかったりする気持ちにワンクッションみたいな事になる。

それがもし喜んで貰えば、わずかな喜びが何人分か?溜まったりして・・・マイナスな気持ちはプラスの気持ちで埋めなければ、時間が解決するなんて待っていたら、ダメージが大きければ大きい程、時間が掛かる事になる訳で。減っている分は足さないと・・・って話。

それと昔キャンディキャンディの漫画で、お世話をしていた患者さんが亡くなってベットの前で泣いているキャンディに、婦長さんが一括。泣くなら別の所で・・・そこで泣いていたら、次の患者さんに悟られる。しっかりしなさい・・・何ともプロ意識の高い話で、これもまた教訓。

じゃ、俺も・・・って話で、結局、今出来る事をコツコツとやって、薄れゆく記憶にして行くしかないのね。それがいつしか思い出に変わるまで。いつもその繰り返し・・・俺はそう思うのね。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モンゴルの額装目地・・・残り5枚半

2018-03-28 01:23:16 | モザイク作家
今日は、例の携帯を洗濯・・・ってのを何とかするのに、朝一番携帯ショップへ。しかしながら、データは画面が立ち上がらないと・・・って話で、ただ、携帯については保険みたいなものに入っていたらしく、リーズナブルに、しかも夕方までには届くらしい・・・。

そこでその足で、昨日の材料屋さんへの支払いに行く事にしたのね・・・ずっとアトリエにいたんだけれど、手違いがあって材料だけ大家さんの倉庫に置いていってくれたらしく・・・そんな経緯もあって、たまにしか注文しないのに・・・・だから支払いへ。

ただ20年前くらいかな?そこの材料屋さんに行くの・・・もっと前だったかな?・・・・正直、あんまり自信が無い位、遠い記憶なのね。ただナビもあって、難なく到着。今度はその足で、亀有カルチャーへ・・・そこに展示してある、梅にウグイスの作品にご興味ある方がいて・・・・。

先日、見たいとの事。そんな訳で取りに行く事にして・・・そんなこんなのアトリエに戻ってモンゴルの額装の目地をやっていると・・・あれ?古い携帯が光っている・・・・あっ、立ち上がった・・・・って事で、新品携帯が届いてから、また携帯ショップに・・・。

ただ立ち上がったのは良いけれど、赤外線での移行をするのに、次の画面に行かない・・・・って事で、断念となり、アトリエに戻った頃に、アドレス帳が見られるようになって・・・・そこで手書きで写して・・・ただ100件弱なんで何とかかんとか、それも切り抜けて・・・・。

やっと落ち着いて目地・・・・そんな中、遅めの夕飯にした時に、フッと携帯を見ると、あれ?何とかなるのかな?・・・と思って、赤外線作戦をやって見ると・・・・おっ、行けるじゃん・・・・って事で、何とかかんとか電話番号を確保。何だかバタバタした1日だったのね。

そんな訳で今帰宅・・・。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モンゴルの額装の目地開始と・・・・

2018-03-26 22:51:27 | モザイク作家
実は昨日サラッとアクアリウムバスのブログになっちゃったのには理由があって・・・・携帯を洗濯しちゃって・・・気が付いたら時遅し・・・。
そんな訳で、何だか報告のみみたいになっちゃったんだけれど、その1の時は、まだ気が付いて無くて、その2の頃にあれっ?・・・って感じに・・・。

本当は、キウイがご主人と差し入れ持って来てくれたり、BAYFMの島村さんのイベントの時にお会いした方やら、ツイッターだかを見ていらした方とか、色々盛沢山だったり、みんなの力作もちょこっと解説なんてのもやるつもりだったのに・・・ガクッとテンションは下がるわ、ドライヤーで乾かしたいわ

って感じで・・・そんな朝、本当は携帯ショップに行きたい所だったけれど、目地材が届く予定だったので、そっちが先になって、そんな訳でまずはアトリエへ・・・それで材料屋さんの電話番号を見つけて、その旨を伝えて・・・・待っている間に張り終わって・・・。

それでも時間があったんで、ペンキ塗り。


これを


って感じに塗り足して・・・すると、大家さんがkatsuちゃん・・・何か来てるよって。それがどうやら行き違いがあったみたいで、置いて行ってしまったようで・・・ずっといたんだけれど・・・。そんなこんなで様子が見たくて夜に目地・・・。と言う訳で明日の朝は携帯ショップから・・・。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アクアリウムバス・・・その2

2018-03-25 22:23:30 | イベント
ではその2へ・・・。アクアリウムバスって入場料と別途支払うと、先行入場って言うシステムがあるのね。ただ、先行入場するって言うのは、生体にこだわったような人だったり、ここならではの物販みたいなモノを狙っているような・・・そんな人達の時間で、最初はあんまり用事が無いようなブース、

そんな感じかなぁぁ・・・って気持ちになったりするが、それが何処にも寄らずにまっしぐら・・・そんな親子さんがいらして・・・ここだわ、ここ。って言うと娘さんとお父さんかな?・・・・そんな2人が、これを目指して来てくれた・・・って。まぁ有難い話なのね。

それではダイジェスト的に・・・


確か60人くらい。そんな中、これもまた恒例のビンゴ大会。それが俺のブースはビンゴ当たり率は相当なもので、過去には、かぐや、キウイ、お姉ちゃんの旦那・・・と続けて当たりが出たのね。しかしながら前回ははずれ・・・・さて今日はいかに?

それが、滑り出しはパッとしなかったのに、後半にかるびが・・・ビンゴぉぉぉぉって。ただ、後半・・・6人もいっぺんにビンゴじゃ、じゃんけんになるだろうし・・・ただ、俺は目地に追われているからずっとは見ていなかったのね・・すると、お姉ちゃんがかるびがじゃんけんに残ってる・・・って。

どうやら6人中4人が当たりになっているらしいのね・・・・。


それがかるびが当たりぃぃになったのね。ちなみにお米。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アクアリウムバス・・・その1

2018-03-25 21:37:43 | イベント
今日は恒例のアクアリウムバス。みどりにかるびにお姉ちゃんに・・・前回はお姉ちゃんの彼氏って言ったんだけれど・・・入籍したんで旦那さんの4人に手伝って貰って・・・そんなスタート。それでは、アクアリウムバスの様子から・・・・お馴染みのその1では、雰囲気のご紹介。


オス同士を戦わせたりもするベタね。まぁ、これは確実に鑑賞用だろうけれど。


今回は何かヘビが多かった気がするんだけれど・・・・。

そしてこれは何だったんだろう?何しろ写真撮って良いですか?・・・ってだけで、先行入場前に慌ただしく撮らせて貰っているから・・・。
こう言うの中々見ないでしょ?だから・・・。

今回の目玉画像はこれ。カワウソ・・・こんなに近くで見た事無いし、知っている限りではここで初めて見たのね。
ただ、その後の生き物・・・これ何だろう?これも見た事無いのね・・・。



このヘビは8キロだか、10キロだかあるって言ってた・・・・かなり迫力あったのね。

これ凄くない?水槽なのね。お洒落なのね。

中身。

前回だったかな?・・・・コケコッコーって鳴いてたのね。ビックリしたんだけれど・・・・今回はすぐ近くだったのもあって・・・アップ。


それと今回は物販の人も結構いて・・・初めて見た方もいらして・・・新鮮だったのね。さて、それじゃ本題のその2に・・・。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

またまたモンゴルの額装

2018-03-25 09:31:28 | モザイク作家
今日も引き続きモンゴルの額装の馬頭琴。ただ明日はアクアリウムバスなんで、積み込みやら何やら色々あって、中々落ち着かないのもあり、ここまで。 
  
支度が終わって最後はモンゴルの額装に使う木を買いにホームセンターに。カットは頼んだんで気は楽だったけど、結構良い時間になったのね。

そんな中、隣の桜が咲いてたからアップ。何か寒さが戻ってなんて思っていたら、急に満開って。何だか慌ただしいのね。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モンゴルの額装・・・最後に馬頭琴

2018-03-23 21:34:16 | モザイク作家
今日も引き続きモンゴルの額装。黒いバックも全て終わって後は馬頭琴のみになったのね。そこで目地の注文をして・・・そんな中、ゆづから今年も・・・と連絡があり、最後の夏も教える事になったのね。3年目は何を作るんだろう・・・?

そんな事をかぐやと話す事になったのだけれど、実はこの数日かぐやと話せなかったのね・・・それは、せがれが引っ越しをするらしく、その手続きやらなんやらで不在だった事もあり、その間の事務的な事はやっては貰っていたが、話すのは数日振り。

そうね、10数年毎日話すのが当たり前のようになっていると、数日話さない違和感って言うのは、何度かあるものの、感じるものがあって、常に居なくなるって言うのは、こう言う時間がずっと続く事なんだな・・・って練習だと思ったりもする。それがあるのと無いのとでは全く違うもので・・・・。

ただあり続けると思う事と、必ずいつか無くなるもの・・・とでは、考え方は変わって来る。それを思う事で喪失感を感じるだろうが、まだある事で安堵感も得られる。しかし、ずっとある・・・と言う安堵感は緊張感を失うと、当たり前と思わずに当たり前になるから、その時が来た時の喪失感は大きい。

しかも、有難みすらも失う事になり、感謝なんて事からは大きく離れる事になる。その慣れ合いはいかがなものか?と思ったりもする。ただそれを多く感じると、喪失感を多く感じてしまうから、孤独を多めに感じたりもする。しかしそれは誰もが全て当たり前の事であって、親しくなると言うのは、

また良い事と悪い事は背中合わせで、その相手との重さであり、軽いものはいくらでも変わりがあるし、良くある恋愛の歌詞では無いが、爪痕さえも残せない・・・なんて言うのと同じで、相手に思い出さえも残せない付き合いなど、自分も相手もその程度の事だった・・・って事でもある。

それは恋愛に限らず、朝のゆづも同様で、3年間の夏を教えるって言うのは、それだけの付き合いをするのだし、しかもこれが最後の夏なのだから、完成と同時にお別れでもある・・・気持ちの入れ方って言うのは、こんな心持ち1つで変わって来る。しかし、そればかりを思うと、相手との温度差なんて、

もんを生んだりもして・・・全ては来るまで思って忘れる・・・当日のスイッチは白紙にして。そしてその白紙にするスイッチを押したら、さようなら・・・が始まって行く覚悟もして・・・その時に、いつも思うのは、また会いたくなるような人であれば、また会える・・・その努力を惜しまない。

それさえあれば、いつかまた・・・常にそんな気持ちであったりする。しかし、月並みだけれど出会いと別れ・・・永遠なんてものは早々あるもんじゃなくて、だからこそ作家katsuの作品のテーマは永遠なんてものが多い。簡単な話で、食事、スポーツ、書道、華道・・・こう言うものははかないもので、

永遠とは遠いものだと思うのね。はかない美しさ。逆に永遠って言うのは、壊れない、丈夫さ、残る・・・こんなものは、レトロ、ビンテージみたいに、価値あるものとして君臨するような気がするのね。そちらは尊いやら、高価なんて表現もあったりして・・・・。

これを軽くしたものが、楽しかったりする流行りモノだったりして、それらはいつか捨てられる運命にある。新しいものと引き換えにね。人もモノも軽いものが苦手でね・・・心に傷として残らないようなものの変わりはいくらでもある・・・それでは有難みが沸かない。

そんな中、さくらからいつもの・・・のが届いたのね。それは何らかの自分が来られないイベントやら仕込みがあった時に、食べ物が送られて来て、みんなで・・・と言うもので、一見良くある話のようだけれど、奴も同じものを買っていて・・・同じ場所にいるような・・・って意味らしい。

これもまた同じで、さくらが来なくても良いような話だから、贈り物で済んでいるだけで、来ないとならないような事が起きるように・・・そんな事を起こす努力を惜しまなければ良いだけなのね。まぁ、何もかもが面倒な話と思う人もいるだろうが、この面倒な事を楽しまないと、普通になる。

普通って言うのは、言葉としては一般的な事を意味するけれど、果たしてその普通が一般的で、そっちが自分に合っているか?って話になると、要するに自分に都合が良い方を選びたいだけで・・・軽い事を好きな人は軽く済んだ方が楽だろうし、ただ、重い事を好きな人っているかな?って思うと、

重いのが好きなんじゃなくて、真剣に・・・とか、真摯に・・・とか、丁寧に・・・とか、そう言う向き合い方をすると、そっちへ行きがちなだけで、多分ただそれだけなんだと思うんだけれど・・・。いずれにせよ、そんな気持ちで作るモンゴルの額装も終わりが見えて来た・・・・。

終わると言う事は、手放す事になり、お金と引き換えに2度と見られない場所に行く・・・って事になる。そんな中、かぐやとキウイで作っていた時に、馬頭琴の童話みたいな話を聞いたのね・・・スーホの何とか・・・って言ってたような・・・。

ザックリだと、貧しい家の子が白い馬を拾い育てていると、娘の結婚相手を探すのに馬の競争で勝ったものを・・・なんて話に、そこで優勝するものの、馬は安くたたかれ、結婚も出来ず・・・そんな中、馬が返って来るものの途中撃たれ戻って来て死んでしまう・・・その亡骸で作った楽器。

こんな話だった気がするんだけれど、これは長渕剛さんの三羽ガラスって歌にも思えたりするのね。要するに何処に着目するか?で内容は変わって来ると思うのね。この話を子供が大事にしていた馬を騙し取られた話・・・と取れば、確かに悲しい話にも聞こえる。でもね、感じ方は色々ある。

例えば、まず大事なのは拾った馬だって事。確かに大きく育てた労力や、貧しい事情を考えたら、そこまで育てるのは容易では無いだろうね。でも、拾った馬なのね・・・。しかも、その大事な馬で結婚相手を得ようと私利私欲を出した事になる。そもそも、そっとしておれば、何も起こらない。

自ら大会に出ている・・・ある意味、身の程知らずって言い方もある。そもそもそんなお金持ちの集まるような場所へ、俺の馬は早いから・・・だけで出ようとする。同じおとぎ話なら、シンデレラだっけ?服も馬車も無きゃ行けないぃぃって・・・。そうなのね、身の丈、身の程ってのは。

しかも、若いとは言え、馬の早さだけで大事な娘の婿にすると思うか?しかも、顔も見ないで、会いもしないで決めるか?お見合いだって会ってからだろっ?・・・突っ込む所は沢山ある。そもそもその頃の偉い人・・・日本なら豪族だよ・・・絶対獲られちゃうし、殺されるかもね。

それが優勝しちゃうんだから、他の人達はそんな子供に負けては恥さらしな感じ。大人なら何してんだか・・・となじられるだろうし、同じ子供ならかなり残酷だろうね・・・家元の子がその辺の子に負けた感じだろうからね。最悪だわっ。揉め事が起こって当然なのね。

当然、娘をダシにしてまでもそんな大会を開くのだから、子供相手なら、はした金で済ませるのもうなづけるし、ある意味、タダじゃなくて、命ありきなら、めっけもの・・・なんて言う事も言えるんじゃないのかな?良い悪いでは無くて、そんな事があっても不思議じゃないって事。

そんなお別れをして、死んでしまったけれど、ひと目でも会えて、その亡骸で馬頭琴を作り・・・一生離れなくて済んだって事でしょ?ある意味、良かったじゃん・・・って話でもあるんじゃないかな?・・・大抵、ここらで話を終わるんでしょ?・・・違うのね。その後でしょ?・・・大事なのは。

そもそも、夢枕だか何だかで、亡骸で馬頭琴を作れ・・・って言われて作るまでは何とか受け入れたとして、そもそも楽器。飾り物では無いのだから、弾いてなんぼ。弾いたからこそ、その音色が馬の悲しみにも似て・・・なんて話になるのだけれど、弾いて下手ならそこまでだけれどね。

そもそも、大事な馬で嫁取りしようとした子なのね・・・その楽器を大事にしまいましたとさ・・・って話にはならない気がするのね。きっと弾くわ。きっとね。しかも弾くと音色は良いのだから、後は腕。もしそこそこ上手かったら・・・お金になるさ。そしたら貧乏から脱出じゃん。

ほら、鶴の恩返しみたいになった・・・・死と引き換えにお礼してくれてんじゃん。助けて貰ったお礼ってね。これで子供サイドは片付いた。それじゃ、子供から馬を奪い取った豪族の親分ね。そもそも、俺が酷いねって言わずとも、この話はみんながきちんと語り継いでいる訳で。

じゃ、酷い人とします。酷いならお金も渡さずにぶん取る方がより悪くなるのね。でも、それの方がより悪く感じるはずです。それなのにわずかとは言え、お金は渡した・・・貧乏人に相当するお金として・・・ただ見下されただけね。貧乏にガキの増し増しって感じでね。

そんな豪族です。そもそも豪族ってのは隣村まで行って、村を破壊し盗賊じゃん。悪行の数々です。そいつに育てられた娘です。期待出来たとしたら?食い物が良いんで肌艶は良かろう・・・ならば、顔は期待出来るかもね・・・ただ、裸の王様の子供のように、王様ぁぁ、裸だよっって言えれば、

凄いが、勝手に自分の婿を馬の早さで、嘘か真か決めようとした父・・・と思えば、その父の行動をどう見ていて、言えるか?言えないか?となる。当然、時代背景を考えれば、感じたとしても言えるはずも無いし、パンが無ければお菓子でも・・・って教育されていたら?もはや、知るはずも無い。

それを普通と考えたのなら・・・もはや勝手にどうぞ・・・って話。更に言えば、競馬のように、育てる人やら騎乗する人で変わるような生き物。そんなものが、子供から奪い取るような人に世話が出来るはずも無く、仮に雇われている人がやるとして、果たしてどんな事になるか?

類は友を呼ぶ・・・って言うのなら、その程度にはその程度って話で、逆に期待度を上げて、親が国民栄誉賞を貰っていないのに、子供は貰えた・・・みたいに、雇い主の器じゃない優秀な飼育員がいたら良いな・・・って祈るしかないのね。勿論、それは娘も同様。親がそんななんだから。

じゃ、まとめると、拾った馬とは言え、そのまま死んでもおかしくない馬を貧乏ながら良く育てた・・・それは大儀であった・・・って話だけれど、拾った・・・先日ネットで有名人がスズメの子供を拾ったが、飛べずにいて、育てていたら、法律では違反行為として、元に戻せとの御達し。

じゃ法律では、ほって置け・・・なのね。それか警察に届けろ。ただね、おとぎ話的なものは、先人が教訓として残しているものであって、法律とは違う次元の話なのね・・・時代背景が違うしね。そもそも、この国は盗んだバイクで走りだすぅぅぅ・・・って歌が名曲だったんだから。

今はダメなんでしょ?・・・校舎のガラス割ったり、酔って高速飛ばしたり・・・あの頃だって法律違反だったけれど、当時の人はやってはいけない前提だし、真似しようとは思わなかったし、やる人は極わずか。真似したらどうする?・・・だから歌うの辞めろなんて話では無かったと思うのね。

おっと反れた、拾った馬はそのままなら死ぬかも知れないし、馬刺しじゃないが食べられるかも知れない。だから、育てた行為は良いとして、問題は私利私欲で競争に出た事。勿論、優勝してお金持ちになれば、家族を養えたり色んな背景もあったかも知れないが、結局取られてしまった。

つまりひっそりしていれば、何も変わらずに馬と過ごしましたとさ・・・だったのね。ただもし貧乏が増せば、ニワトリだって羊だって食用なんだから、喰うに困ればやったかも知れないし・・・・いずれにせよ、子供のおとぎ話なら、通常通りで良いが、大人ならこの位は考えたいのね。

子供と一緒って訳には行かないのね。しかも、モノの考え方がハンを押したように1つってね。それじゃ個性は育たない。想像力ってのはこんな事を広げて行く事であって、その中からの選択であって、これしかない・・・って言われた事を思い込むスタイルなら、流派所属が良いと思うし・・・。

そちらに行くなら基本として、バイエルから習うべきだし、自由を望むなら、流派と違って教えて貰った通りに・・・では無くて、常に自分で何かを考える癖を付けないと、何も生まれないし、基礎も無いのだから、師を持つ流派に比べられて見劣りして当然になる。

あっちにあるものが無いのなら、その代わりになるようなモノを得ないと・・・バランスが悪くなる。何でも一緒。無いと感じるのなら?ね。しかも、残念な事にその代わり・・・程度では、それ以下にしかならないのね。拾った馬で嫁取りするんだから・・・子供でも。

ならば、同等じゃ嫌なのは大人なんだから・・・欲は深くなる。スーホの白い馬って話を聞いて、俺はこんな事を感じたのね。そんな中、馬頭琴を作るって言うと、知識賢者の2人がスーホの・・・を教えてくれたが、白い馬は、そもそも額の中身が白いタイル・・・かぶるのね。

しかも、内容が私利私欲を出しちゃった子供の話・・・・これはあくまで額であって、俺がメインじゃない。欲の出し過ぎ禁止。白い馬を作ると、取り上げられちゃうんでしょ?・・・だからkatsuの茶色の馬にしたのね・・・白い馬はそんな話なら、茶色の馬はどんな話になるんだろうか?ってね。

こんな作り方は古典落語と新作落語みたいな感じで、古典は歴史あるもので、新作は現代の出来事なんかで新しく作られたもの。古典はスーホみたいな話なら、新作としてこんな解釈で・・・貴方はどう感じますか?・・・・って感じなのね。そんな感じが俺のスタイル。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モンゴルの額装・・・残り2枚

2018-03-23 01:40:30 | モザイク作家
今日は朝からモンゴルの額装。白い縁取りは全て終わって、いよいよ黒いバックが2枚と馬頭琴1つになったのね。


それがこれ。これが終わればひとまず張り終わりになる。ただ今回の施工はこちらでは無いので、なるべく負担にならないように・・・と考えると、繋ぎ目のタイルも切って用意するべきかな?となると、その後もちょっと厄介なのね。その後、この木にもう1枚木を合体させて・・・そして目地。

そんな中、今週末のkameyaさんが中止になったので、残念ではあるけれど、それはそれでこれが進む事になるのね。ただ、普通は考えないだろうけれど、単純にそれだけの事・・・と流してしまうかも知れないが、同じ人物の1日であるのだけれど、全く違うものになるのね。

方や先生。これは教える事であるから、向き合う相手がいる。それが作家となると、向き合う相手は自分。つまり孤独になる。こんな違いがあるのだけれど、何も考えなくて過ごして、何もダメージを受けないのならそれはそれで良いが、実は大抵そのダメージを知らずに受ける事が多いのね。

だから人は、ラッキーと口にして、同じ人が今度は何でこんな事になったんだろう?・・・と言ったりする。何故そうなるか?は単純な話で、ラッキーと言った場合、結果が思った通り以上だったからであって、逆に何で・・・?と言った場合、今度は結果が自分の予定よりも下回ったからであったりする。

では、本当に努力を惜しまずやった人がそんな事を口にするか?・・・となると、恐らくそんな事は言わないと思うのね。そもそも目標に向かってやっている訳だから、結果を得たらそうなりたかったのだから、報われて良かっただけだし、そうで無かったら、やり遂げた自信があるのなら力及ばずなだけ。

より一層の努力をするか?諦めるだけ。実にシンプルで簡単な話なのね。ただ、問題は心の整理をしないと、0と100みたいに簡単に割り切れないのが感情なんてもんだったりするのね。だからこそ、ちゃんとこうだ・・・って言い聞かせないと、心の納得が無いと、必ず何かが起こるのね。

何か?それこそが、ラッキーと何で?のまるで偶然のような出来事となる。けれど、きちんとそこを確認して置けば、誤差はあったにせよ、左程偶然のような気持ちにはならないのね。だから今回の場合、もしいつものように出張があったのなら、いつものような時間を過ごす事になり、戻ってからの制作。

ただこれだけの事。それがイレギュラーな事が起きたのだから・・・と考えたのなら、起こり得る事は何?と振り返れば、さっき言ったように、お教室なら先生として人と向き合い、作家なら自分と向き合い、孤独と向き合う事になる・・・その時間の差みたいな話。

ただこれも基本としての話であって、例えば先生として問題が無かったなら、ダメージは無いが、上手く伝えられなかった・・・・って気持ちが残れば、当然、それを持って帰る事になるし、その後、戻って作家に切り替えても、ダメージを引きずるのか?それとも切り替えかれるか?で変わって来るし、

作家として作品がいつも成功している事自体、簡単な慣れている事をしているとしか思えないし、常に新しい事をしているのなら、常に考え事は付きまとう訳で・・・逆にあるべき教室が無くなった・・・無くなったって気持ちと、制作時間が増えたと相殺ときちんと出来たなら、制作が上手く行くか?

行かないか?の結果いかんで、いくらでも変わって来るし、時間が長いって事は向き合う時間が長い分、成功すれば気分は乗って来るし、失敗したり、悩んだりすれば、時間だけが過ぎて行くダメージを受ける訳で・・・ただ作品の残っている分が、繰り返しばかりなんで大きくは崩れないと思うけれど。

いずれにせよ、その日の自分がそんな気持ちになる・・・数日後・・・って思っているのと、その話を伺った今の気持ちのみの感情だけとでは、全く違う事になり、それはまさかの為の心の準備であって、それは自分の心への保険みたいな話でもあったりする。

その日を迎える迎え方を持っているのと、持っていない差って言うのは必ずある。ただ、これも良し悪しで、きちんとぶれない心のままで・・・が大事で、それを持たないと、準備していた心のままにはならなくなる。ん・・・そろそろ飽きられそうなんだけれど・・・あはははは。

要するに花粉症を説明するのと一緒なのね。全て花粉症の理屈と一緒で、人には容器があって、そこに花粉を落として行くと、一定の量を超えたら症状が出て来る。しかしながら人それぞれの容器の大きさが違っているので、大きさに寄って日数が変わるだけである・・・そんな理屈。

つまり、花粉症と言うのなら、花粉が容器に溜まる・・・これを全ての言葉に当てはめるだけで、例えばストレスと言うのなら、ストレスって花粉が溜まって行く・・・しかし容器は人それぞれ。みたいにね。その時に花粉なら何の花粉か調べれば、薬や予防をしたり出来る。

ではストレスは?ここが難しい所で、何のダメージを受けているか?は人それぞれだし、更に容器の大きさも判らない・・・ただ、きちんと考えれば、お医者さんにも判らない理由がそこにある・・・・その時に、一体どんな時にそうなるのか?今の自分は平気なのか?と向き合えれば良いが、

ここに難しさがあって、余命を知って前向きになれるか?怖いから知らずにいたいか?みたいなもので、受け入れられる心があれば、ぶれずにいられる方へ迎えるが、逆にあたふたする自分がいるのなら、逆効果にもなる。全て良い事と悪い事は背中合わせになる。

ただ時が経って忘れる・・・って言う人の能力で誤魔化す事が出来たとしても、実は完治では無く、その痛みが薄れただけ。要するにまた同じような痛みの伴う事が起きれば同じ事を繰り返すだけ。それは作品作りも同様で繰り返せば慣れる方向だし、慣れないのならまた痛む事になる。

いずれにせよ、習慣になっていた事が無くなる事は必ずダメージになる。良くも悪くも。だからこそ、それを少しでも上回る何か?に繋げないと、ただのやる事あるから大丈夫・・・では無いのね。もしそんな事は無いと言うのなら、無くなってもダメージの無い強い心の持ち主か、無くなっても平気な場所か?みたいな事になる訳で・・・何年も続いている場所なのだから、気になるのも当然。

そんな事も踏まえて、その日に張り上がりとか、何か良い結果が出れば、それが、逆に助かった日にもなり得るのね。って話。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする