2016年11月9日(水) 3:00-8:10pm 東京文化会館
NBS&日経 プレゼンツ
ワーグナー 作曲
スヴェン=エリック・ベヒトルフ プロダクション
ビルギット・カイトナ リヴァイヴァル・プロダクション
ワルキューレ
キャスト(in order of appearance)
1.ジークリンデ、ペトラ・ラング(S)
2.ジークムント、クリストファー・ヴェントリス(T)
3.フンディング、アイン・アンガー(Bs)
4.ブリュンヒルデ、ニーナ・シュテンメ(S)
5.ヴォータン、トマス・コニエチュニー(BsBr)
6.フリッカ、ミヒャエラ・シュースター(Ms)
7.ヘルムヴィーゲ:アレクサンドラ・ロビアンコ(S)
7.ゲルヒルデ:キャロライン・ウェンボーン(S)
7.オルトリンデ:ヒョナ・コ(S)
7.ワルトラウテ:ステファニー・ハウツィール(Ms)
7.ジークルーネ:ウルリケ・ヘルツェル(Ms)
7.グリムゲルデ:スザンナ・サボー(Ms)
7.シュヴェルトライテ:ボンギヴェ・ナカニ(Ms)
7.ロスヴァイセ:モニカ・ボヒネク(Ms)
アダム・フィッシャー 指揮
ウィーン国立歌劇場管弦楽団
ウィーン国立歌劇場舞台オーケストラ
(duration)
ActⅠ 66′
int
ActⅡ 100′
Int
ActⅢ 71′
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今回の来日公演初日(2016.10.25)のアリアドネを観てからしばらく日にちが経ってしまったが、それに続く2本目の公演、ワルキューレ3回公演のうち2回目におじゃま。
シュテンメとラングを一緒に観られたのはハッピーでした。歌い手は全て秀逸で申し分ないもの。半面、演奏と演出はかなりダメ。結局のところ、総合芸術の振幅の大きさと極みを見せつけてくれた上演でした。
第1幕3人衆は殊の外柔らかい。歌が語りのように聴こえてくるところが多々ある。ジークムントのヴェントリスは特にそうでいわゆるヘルデン系とは一線を画す。パルジファルがやっぱり浮かぶ。
フンディングのアンガー、これも語り風なところが多い。フレーズの母音の伸ばしかた、伸びて押す、押して伸ばす。ちょっとなんともいえないアクセントの違和感と言いますか新鮮味と言いますか、語るとああなるのかよくわかりませんけれども。
この2人の語り口は同質で、なんだかお仲間のように見えてくる。強烈な敵意識は前面に出てくるものではありませんでしたね。
むしろ、ジークリンデのラングと2対1の場の雰囲気が醸しだされた。ラングは何度も聴いているはずで、最近だと6月の新国立でのローエングリンでのオルトルート。あのときはさっぱりでしたが、今日は凄味が違う。まず満々のデカい声。圧する声。キーンではなくメロウ。帯のように伸びていく。一部、波打つようなところがあり際どさも満点。なによりも、彼女の歌、動き、きっちり大胆明確。彼女か歌い動くと場がワーグナーモードになっていく。独特な空気感。
この3人の絡み合い、舞台は石像のように変化がない中、むしろ舞台は要らないのではないかという実感。その中をドラマが進む。
3人とも声が大きく、そのサイズのなかでニュアンスを極めていくので、聴衆としてはわかりやすいですね。ここらへん、日本人のサイズではなかなか体験できない。
柔らかい第1幕でした。ドラマチックは背面へ。
なにかが出て行った入って来た、冬の嵐は過ぎ去り。ヴェントリスとラングの掛け合いはまことにお見事で聴きごたえ満点。比して舞台は何も変わらない。申し訳程度に少し明るくなるだけ。上野の舞台に何か問題でもあるかのような具合。これ本当にアリアドネと同じ人がやったプロダクションですか。ここだけでなく全部、怪しい演出でしたね。人の動きは場慣れしていると思われ自然なものではありました。
この幕は3場もの、何も変化なし。場面転換をしない演出は少なからずありますけれども、セットしたものを置いてあるだけの舞台。無い方がいいのではないか。
第2幕。オーケストラのダメモードはずっと続いていて、特にザッツのずれはひどい。舞台オケというのが混ざっているからなのか、指揮に問題があるのか、縦ずれは時にパートや弦種単位だったりするので、意図してやっているのではないのかと思えるぐらい。
2場の語りの味付け伴奏も良くない。4場の死の告知あたりから徐々に持ち直してきて、続く終幕ではオケメンがどっさり増えて快調になるという不思議なオペラワールド。
ここ2幕での新たな3人衆。やっぱりみんな声がデカい。
ブリュンヒルデのシュテンメは役に集中する人ですね。歌に集中する人。音源では接しておりましたが、こうやって生で観るシュテンメは格別です。
インテリジェンスを感じさせつつ、ドラマチック・ソプラノからやや柔らかに傾斜。鎧兜も何もない演出なのでかえっていいのかもしれません。声が尖がってなくてフレームが柔らかい。ふちどりが柔らかく、それでいて線を感じさせてくれる。
ラングとシュテンメ、最高です。演出のこともありストーリーは横に置いて彼女たちの歌を堪能しました。
ヴォータンのコニエチュニー、登りつめてきた人という感じで手堅い。人間的なヴォータンですね。目には黒い墨のようなものを塗っただけで、たまにぎょろりと光る。演出はまんべんなく粗末なんだが、歌い手たちが全部救っている。
バスバリトンですね。下から上までよく響くし、歌いまわしにテンポ感があって次々と先に進める心地よさがある。指揮のフィッシャーは左手で歌の出だしを頻繁に指示だしてますので、その快活なテンポにうまく乗っかっていけてる。贅沢言えば、もうひとつ威厳が欲しいところもある。
フリッカのシュースター。いやぁ、逸材がぞろぞろ次から次に聴ける。ハッピーですな。
達観したキャラクター風味満載というところか。圧する声で、相手の親子もたじたじですよ。もう、第一声でフリッカの勝ちだろう、ヴォータンの負け、このドラマストーリーさえ見えてしまう。フリッカのこの存在感。朗々と響くメッゾ。凄いもんです。
この2幕に現れる1幕の3人衆。ここでの絡み合い、やっぱり、シュテンメとラングの歌唱が絶品。どっちも負けじと。圧巻ですね。
それと、オレはお城にいくとどうなるのか、ヴェントリスのここらへんの語り口、1幕を思い出させます。ストーリーでは刃向かうが、実は負けがわかっていたのではないか。諦観の語り口。ここも絶品。
終幕、ワルキューレ8人衆。ちょっと太めなかたも機動性を発揮。舞台の場は動かず、人が動く。馬が8頭立っているだけの前後ろを移動してあちこちで歌うので結構大変そう。歌うポイント、要所ではきっちり前に出てきてポジショニングするので聴きやすい。彼女たちの声もデカい。これでアンサンブルするとさらに大きくなり迫力満点です。ほかの演目に出ている方もおりますね。粒ぞろいで秀逸。動きもよく統率がとられていたと思います。
あとは、親子の歌唱が残るだけ。
シュテンメ、コニエチュニー。ようやくまともになったオケ伴の潤いの中、しとしとと歌いあう親子の絶唱。渾身の歌唱。お見事。
親子手をつないで歩く。口づけとともに子が倒れ、鎧は無い。横になるだけ。あとは炎。
ここで、3幕最初からあった馬8頭、ワルキューレたちのものだろう、ここは馬小屋か。石像のように動かない馬たち。その周りにプロジェクション風味の火が回る。動物の小屋に火はないでしょ。それよりも場面転換の無い舞台。粗末さが露呈。まあ、ジークフリートの目覚めの動機を見てから文句を言えといわれるかもしれないが、そんなことわからない。逆に今なら言える。
いろんなものが混ざった舞台でした。
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指揮のアダム・フィッシャー。
昔、シノポリが春先の上演中ゴロンしたので、次から指環を振ることになったダダコネだったか、あれを思い出すぐらいであとはよくわからない。
棒を見ていると主に2種類の振りがある。ヤノフスキばりに小さい動きで正確さを出す局面での振りと大きく振り回して次の入りタイミングだけに集中させるぐるぐる回し振り。
小振り局面では左手で歌の入りを頻繁に指示している。あれは歌いやすそう。
ぐるぐる振りはそもそもが次の一点合わせのためにやるものでうまくきまればいいが、オケによっては厳しいものがあるかもしれない。今日の演奏では頭の3拍子系ぐるぐる振りから2幕の語りあたりまではオケがあっておらず、これは指揮にも問題があったと思う。オケはそんなにうまいといえるほどではないので、丁寧な演奏が欲しかった。真面目にやっているとは思うが慎重さと丁寧さに欠けるものであった。
指揮者はアルチザンなかたのように見受けられます。2500円プログラムには彼への体験美辞麗句が踊るが、絵空事とは言わねど、本当にそうかね。
演出はアリアドネと同じベヒトルフ。ただ、リヴァイバル上演用なのか、今回の来日用なのかわかりませんけど、再演演出とクレジットされていてそれは別の演出家が担当、カイトナという方です。今回どのような変更がなされているのか知りませんが、全くよくなかった演出でした。人の動きはこなれていてスムーズ。意味のある動きはなく、小物的に何点かあって、歩くシルエット狼?、ぬいぐるみ、頭の形の小物?、など特に意味があるわけではなさそう。
あと、場面転換が全くない。こういった代物はみかけますが、セッティングされた木とか馬が最後まで、まさしく棒立ち。ただ、ものを置いているだけ。最後の馬小屋の炎シーンなどは、動かすのが面倒なのでそのままにしてある、そう思われてもしかたがないものだろう。粗末な演出だったと思います。幻滅でした。
それから字幕、「まもる」を全て「護る」で通したこと。内容を吟味して使い分けしてほしかった。それに護るって今使いませんよね。
「告げる(つげる)」とすべきところを「遂げる(とげる)」と、なにか勘違い的な部分もありましたね。
字幕に少し混乱しました。
おわり