河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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1351- さまよえるオランダ人 オペラパレス、新国立劇場2012.3.17

2012-03-21 22:41:24 | インポート

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2011-2012シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから。
2011-2012シーズン
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2012年3月17日(土)2:00pm
オペラパレス、新国立劇場、初台
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ワーグナー さまよえるオランダ人
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演出、マティアス・フォン・シュテークマン
ダーラント、ディオゲネス・ランデス
ゼンタ、ジェニファー・ウィルソン
エリック、トミスラフ・ムツェック
オランダ人、エフゲニー・ニキティン
マリー、竹本節子
舵手、望月哲也

指揮、トマーシュ・ネトピル
東京交響楽団
新国立劇場合唱団
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先月のボエーム以来の初台。この日はお初の指揮者。
序曲は昨今の若手指揮者の例にもれずにディテールにこだわるスローなテンポ。造形よりも見えなかったところに光をあてる、オペラなので造形は重視せずでこれはこれで悪くありませんが流れが悪い。昔は別にスピード感が無くても、グワグワ押してくる指揮者が多くいた。下り坂道のカーブで遠心力の限界でかろうじて持ちこたえるワクワク棒、晩年のクレンペラーとかベームの逆方針の指揮者たちですね。それが最近の指揮者というのは、まるで直線の上り坂を歩くように振る。カメ速だとたしかに右左いろいろなものがよく見えることは見える。でも遅すぎて造形がくずれたらバランスを失い転ぶ。下り坂ではなく上り坂で転ぶ、老人でもないのに。
それとも時間軸が構造物の一つの大きな要素であるということをやめてしまったのかな。
ここ1年ぐらい聴いた棒で言うと、上岡は構造物を崩壊に追い込んでいる。先般聴いたマーラーの4番は完全に崩れていて何を言いたいのか不明。今頃来たロマンチック街道なら表現のバリエーションの幅を自ら狭めているとしか言いようがない。目障りな棒さばきは横に置くとしてもトップオケの席を手中におさめるには音楽を造形芸術としても見るような視野が必要だろう。インバルは昔のような危ない橋を渡ることをやめてしまったがそれでもフォルムの認識はいまだに強いと思います。日本では迎合の誘惑に惑わされていると思います。ご本人のしたいこと、つまり昔のような棒が出来なくなりつつある焦燥感とは関係なく、日本で完全にブレークしている、このズレがあるように思います。ミスターSは昔から快速指揮者で今もそのコンセプトは変わらない。オケ含めた周りの尊敬の眼差しが局所的なものではなく、いたるところにあるようになった。それは、力、実力の認識、が広く伝播してきているからだと思う。それが演奏にあらわれていて快速でいて演奏者の高め合う力、つまり演奏そのものともうひとつ演奏者が自分自身を高める、その双方がシナジーして心地よいテンポでふくよかな名演がだいたい生まれるこのごろ。
ということでこの日はシンフォニーではないのでこちらもあまりひきずられないで聴いてはいられるのだが。

序曲はキッチリ一回終わり指揮者は聴衆に振り向きごあいさつ。今回のプロダクションは第1幕のあと休憩がある。第2、3幕は連続演奏。つまり曲が計2回途切れるというわけだ。第1幕から第2幕へ激しく舞台転換があったわけでもないので、よくわからない。昔、3幕ともきっちり一度終わるというのを見たことがあるが、曲想的な盛り上がりも中途半端で、とりあえず休憩しましょ、っていう感じでしたね。今回の第1幕のエンディングもそんな感じです。
それで、ダーラントとかオランダ人やエリックの歌を聴いていると、大向こうをうならせるというよりは、ピッチに目配り(耳配り)し、楽器と同じように正確に歌う。下から上までおしなべてまんべんなく正確。昔の東ドイツのオペラハウス専属歌手のような錯覚に陥った。演技性は比べ物になりませんが、歌唱といいますかそのような全体的なスタンスを感じました。まずは正確でなければ話にならないでしょうといったところか、でもその先はあまり見えない。
棒の影響なのか歌い手のせいなのか何かを特定するような話ではないのかもしれませんけれど、スローで双方ディテールを正しく演奏、斉唱する。悪くないですが、ヘビー級と正反対なものも割ともたれたり疲れたりするもんです。少し間延びしていたように思います。
第3幕終結に向かうゼンタとオランダ人の二重唱は正確性の勝利ではあったのかもしれません。押し寄せるワーグナーのトレモロ、それに乗る二重唱は現代感覚的な冷静な興奮をもたらしたと思います。
それでそのゼンタですが昔風の、巨体は馬力なり、といったところで、見た目ゼンタ像から少し離れてしまいましたが、それはそれとして声の伸びが素晴らしくハウスに響き渡る。特にクライマックスに向けて自然とドラマチックな盛り上がりとなる。このオペラは肩透かし風にあっというまにクライマックスになだれ込みますが、彼女の声は劇的で思わずその中に飛び込める。彼女も覚悟を決めて歌っている。
ゼンタは船に乗り込み絶唱、オランダ人は地上でうつ伏せながらもがく白熱の演技、構図としては救済には覚悟の死がいると説いているのか。伏せず直立して茫然自失でゼンタを見ながらエンディングというほうがこのプロダクションとしては説得力が増したような気もしました。
結局、聴後感としては全体的にコンパクトにまとまっている感じ。それから舞台については、道具、舞台そのものを割と頻繁に動かす。昔みたいにゴトゴトガタガタ音がせずスムーズでいい。思い通りの動かし方が出来ていると思います。初台ならではの舞台装置のおかげ。
今回、舞台そのものの遠近感はあまりでませんでしたが、歌い手が舞台のかなり前の方に出てきて歌う局面が多発。正確性と声量は反比例するのだろうか。前に出てきてもらった方が確かによく聴こえてはくる。

伴奏は東京交響楽団でした。この前観たボエームも確か同じだったと思います。シンフォニーオケの几帳面な造りの音で余計なものがとれたきれいなサウンドで新鮮でよかったと思います。
オーケストラの音は平土間(オーケストラと呼ばれる一階席)と天井桟敷とではかなり異なっていて、だいたいいつも良い悪いの感想がまちまちになる。
天井桟敷はオケの音がピットから上方にストレートに上っていき、そのダイレクト音を聴くことになるのでだいたい粗い感じがする。極端にいえばホルンの音を後ろから聴いているような感じです。粗い音はブレンドされておらず角もとれていないのでざらざらしていて街場できく素の騒音みたいなチープ感があります。
高価なウィスキーでもボトリングされたら年貢の納め時ですけれど、その上澄みだけグラスに注いでもらいすぐ飲むのと、ちょっと置いてから飲むのとではだいぶ味や風味が異なってきます。あっちこっちばらばらに向いていた風味(分子構造の向き?)が、置くことにより同一方向に揃ってくるといった話を聞いたことがあります。本当かどうかわかりませんがなんとなくうなずける。これと同じです。
天井桟敷の音はダイレクトで迫力がありますが、荒々しくていろんな音がいろんな方向を向いている。まだ落ち着いていない。しっくりと馴染んでいない。
一方、オーケストラ席(平土間席)で聴くサウンドは、オケピットから上に向かった音が天井にぶつかり、下に降り注がれるような感じになります。ちょっと荒々しかった音、シングルカスクの分子構造の向きが、ホールの空気になじみブレンドされ角がとれた良い響となる。
うまくなくてもデフォルメされてうまく聴こえてくると言われればそれまでですけれど、たしかにウィスキーは、腐っても鯛」ではありませんね。
年を取ったら角が取れるという言葉がありますが、あれは嘘で、年をとったら角が多くなりすぎて遠くから見たら丸く見える、ということにすぎないと思っております。時間を置いた音は角が取れて丸くなるのか角だらけになるのか、物理的な作用とは別に、それはもはや聴き手の耳に任せられているのかも。それはそれで楽しい事ではあるのですけれど。
あっち、こっち、いろんな席に座って確かめるのもいいかもしれません。初台には本格的なドレスサークルはありませんが、だいたい音はよくないですね。全体キャパが無い分、ダイレクトサウンド系だがデッド感はそんなに強くないといったところだと思います。
それと、この日の指揮者、いろいろありましたけれどこの音楽芸術を広めなければならないという気概が感じられる情熱と真摯さがまざったいい指揮者でした。
壮年期のベームはこのオペラ、バイロイトでは飛ばしていましたね、2時間20分あまり。押す一手でドラマチック。クナとかはそもそもこのオペラは振ってません。
今日の指揮者ももっとドラマチックな展開が出来るように今後に期待します。この四半世紀、オペラは演劇性がきわめて強くなり、演奏の方はつられてディテールへのこだわりが出てきているのかもしれませんけど。
シンフォニーなどオーケストラ演奏のディテールへのこだわりはまた別の話しだとは思いますよ。
おわり

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