チェリの来日公演から。
1980年4月18日(金) 7:15pm NHKホール
ティペット 歌劇「真夏の結婚」より“典礼舞曲”
ドビュッシー 「映像」より“イベリア”
ムソルグスキー(ラヴェル編曲) 展覧会の絵
(アンコール)
プロコフィエフ 「ロメオとジュリエット」より
ドヴォルザーク スラヴ舞曲
セルジュ・チェリビダッケ 指揮 ロンドン交響楽団
1977年の初来日の時のような緊張感、圧迫感はこちら聴衆にもあまりなくなっている。例によって当時の感想メモから
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1977年読響への客演のときのような聴き手側に悲愴感がない。読響のときはチェリの怖さに団員の表現力がかたくなっていた。(それでもあれだけのことをやった)
さすがに英国のロンドン響である。ヴァイオリンの細くて微妙なアンサンブルは聴き手をとらえて離さない。また金管に張りがあり、持続力のある音はいかにもブラスそのものである。(決して強く無理やり吹いているわけではない)
チェリの作り出す音楽はとにかく丁寧である。丁寧であるためには慎重でなければならない。またテンポは遅くならざるを得ない。チェリの作り出す音楽は一般に遅いと思う。リズム感が強調されないような音楽では特にそうだ。リズミカルな音楽ではまたそれなりの素晴らしさがあるが。とにかくそのおそい時の音に注意しよう。
ビロードのように柔らかく滑らかな音。音楽がきれいであるためには音がきれいなのが大前提条件である。ffでも強く演奏する意味がどこにあるのだと問いかけているみたいだ。
ドビュッシーのイベリアはその意味で最高の音色感を味わった。とにかくこの絶妙な「音色バランス」がいつまでも終わってほしくなかった。
「展覧会の絵」でも基本的なやり方は変わりはない。これはまさに絵そのものなのだ。きれいな絵を目の当たりに見ているみたいだ。これだけの美しさを見せられたら感動以外の何が心の隙間に入る余地があるのだろうか!
しかし、冷静でもある。ということを我々は忘れてはいけない。そのことを心の隙間にしまっておこう。
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といった感じで、短くもわけのあまりわからないメモ。
この日は驚いたことに空席が割と目立った。1977年、1978年のチェリへの熱狂はどこへいってしまったのかという感じであったのだが、それは思い入れのある聴衆とそうでない人たちの比率というよりも、チェリの日本での一般化であったのかもしれない。
おわり