河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

0129- 昔、テミルカーノフはニューヨーク・フィルにデビューした -3-

2006-11-29 00:01:00 | 音楽

0129- 昔、テミルカーノフはニューヨーク・フィルにデビューした -3-

(記事続き)



Important Political Fact
「私たちが今ここにこうしている事実は大変にだいじなことです。」テミルカーノフ氏は、フィルハーモニックとの最初のリハーサルに続いて、フィッシャー・ホールのグリーン・ルームで火曜日に話をした。「これらの演奏会は、合衆国とソ連の間の扉をひらくことになるでしょう。それは、これらの演奏会の音楽的な出来事ということだけでなく、大変重要な政治的出来事でもあります。私が、もしほかのどこかで大変重要な契約をしていたなら、ここに来ていたかしら、ということは重要なことです。」
テミルカーノフ氏は小柄で引き締まっており、生真面目な人間である。ヘヴィー・スモーカーで、突然笑い出したり、優しくなったり。彼はここ6年間ロンドンのロイヤル・フィルの主席客演指揮者であるけれども、彼の英語は限られている。「しゃべらない方がよりよくなる。」というのが彼の少ないフレーズの一つである。そうでなければ、非常に礼儀正しくて丸顔のペトロフ氏がテミルカーノフ氏に通訳を許すはずがない。
著名なロシアの音楽一家、芸術一家の出てあるペトロフ氏は、1962年にテキサスで行われたヴァン・クライバーン・コンクールで第2位をとった。彼は1960年代、1970年代にここで定期的なツアーを行い、また、1977年にはクライバーン・コンクールの審査員をした。
ピアノの名手であるペトロフ氏はリストとプロコフィエフのスペシャリストであり、彼らのソナタは全て録音している。先の11月17日に、彼はモスクワの演奏会でテミルカーノフ氏と演奏した。その演奏会ではプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番、シベリウスの交響曲第2番が行われた。その時の成功が、ニューヨーク・フィルの契約に直接結びついた。(テミルカーノフ氏は言っている。「この演奏会がよかった、といっているのではない。それはそうあるべきものであった、とただ言っているだけだ。」)
テミルカーノフ氏は1938年コーカサス生まれ。レニングラード音楽院でヴァイオリンと指揮を学んだ。1968年に有名な全ソ連指揮者コンクールで優勝した。1969年から1977年まで、キーロフを掌握した時、この国で一番素晴らしいレニングラード・フィルに続く市の第2のオーケストラであるレニングラード交響楽団の音楽監督であった。
キーロフでは、オペラと国際的に有名なキーロフ・バレエ両方の監督である。キーロフ・バレエは、合衆国に戻ってくるよう熱烈に要望されているとテミルカーノフ氏は言っている。しかし、彼はバレエよりもオペラをより指揮している。バレエには自身のバレエ・マスターがいる。テミルカーノフ氏はさらに舞台監督として、二つの定評ある演出(ペトロフ氏によると)、スペードの女王のキーロフ演出とエフゲニー・オネーギンを持っていたことがある。
オペラとロシアのことに集中しているように見えるにもかかわらず、ロシア国内と外国でのオーケストラ演奏会の指揮活動も続けている。音楽言語の国際性において、彼は堅い信念を持っている。
「ソ連と欧米の音楽家にそんな大きな違いはない。」彼は言う。「ロシアではチャイコフスキーだけでなくブラームスやコープランドも演奏する。スヴャトスラフ・リヒテルよりもうまくベートーヴェンのピアノ・ソナタを弾くピアニストを私は知らない。しかし同じように、レナード・バーンスタインとニューヨーク・フィルよりも素晴らしいショスタコーヴィッチの交響曲第5番の録音を知らない。」
(記事続く→ -4-)


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。