河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

552- 井上道義 シベリウス2008.2.2

2008-02-03 23:31:00 | 音楽

翌日の3日は、またマリイスキーのオペラがあるというのに、曲につられて出かけてみた。

.

200822()2:00pm

サントリーホール

.

シベリウス/交響曲第1

吉松隆/鳥たちの時代

シベリウス/交響曲第7

.

井上道義 指揮

日本フィル

頭の黒いものがすっかりなくなってしまっても井上は華のある指揮者なのだが、時として、動作身振りが音楽の流れと不自然に一致しない。

彼の場合、指揮の基本で棒は正しく音楽を導く速度で早め早めと流れを作ってくれる理想的な棒だ。だが余計なことをたまにする。

棒の動きのための棒、になってしまうときがあり、その演技性が鼻についたりする。

自意識過剰がなくなり音楽だけに集中できるようになれば、もっともっと素晴らしい演奏を聴かせてくれるはずだ。

シベリウスの1番はいつ聴いても、ものすごく新鮮な曲で2番以上に魅惑的な曲だ。

弱弦のトレモロに導かれクラリネットが空虚な流れを作り、すぐにヴァイオリンのユニゾンによるまさしく北欧の音楽そのもののような透徹した響きが醸し出され、さらにそれにホルンが咆哮し、パーカッションが応える。ホルンが少し弱いのが残念だが、全体にシベリウスのブラッシングが素晴らしいの一言。井上の器用な棒がさえを魅せる。

早めの第2楽章も正解。強弱よりも音響のバランスに重きをおくユニークなもの。

第3楽章の迫力もすごい。終楽章はすこしせっかちな部分がある。もう少しかみしめてほしいところもあるが、終結部に向けて音楽のドラマ性はしっかりと構築する。

せっかちな部分が最後まで少しだけ尾をひいたような感じなのだが、大目にみたい。

骨組みだけのような1番であるが、その魅力は捨てがたいものがある。

井上の今日のプログラム・ビルディングは最高。吉松をサンドウィッチにして前後にシベリウスを鳴らす。それも1番7番と渋め通好みな選曲だ。

シベリウスの1番では多少なりとも鼻についた井上の棒であったが、吉松を演奏する姿は、まさしく水をえた鳥?ではなく、水をえた魚。魚が鳥の曲を振っている。本人が初演した曲だけあって自信満々。曲も魅惑的。

自由な響きが魅力的だが、日本人の曲というのはいつもどうしてこうも構えすぎる曲が多いのだろうか。構えている間に曲が終わってしまうではないか。構えはあっていのだが、それに見合う全体の長さにすればいい。20分とは言わず1時間ぐらいの曲に自然になるぐらいの無遠慮さが欲しいものだ。

いずれにしてもここでの井上の棒はさえわたった。

最後の7番であるが、彼なりのメリハリと音の純度を前面に押し出した‘清く美しい’演奏。

しかし、7番の演奏には、トンデモ演奏がある。事あるごとに書いているのだが誰も騒いでくれない。

エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルによる超演奏

レニングラードの完璧にして強烈なアンサンブル。ムラヴィンスキーの前提知識は神棚へ、素から発生したと思われる自由奔放な超解釈。

見よ、最初のクライマックスにおけるトロンボーン。こんな音を出されたら、後続部隊は宇宙的な響きを醸し出すしかないわけだ。

.

ムラヴィンスキーのような演奏は2度と出現しないと思われるので、聴くほうはいろいろな指揮者の解釈をCDで聴いてから、ムラヴィンスキーにのぞんでほしい。いかに異なるか、しかしものすごい説得力、ぜひ一度は味わってほしいものだ。

.

ところで井上であるが、どのようなスコアの読みをしたのかわからないが、たとえば曲想が転機を見せるところで強弱記号がないところは、どちらかというとメゾピアノ風。音楽はうまく流れるのだが、ムラヴィンスキーの超解釈の毒演を聴いた後ではなんだか空しい。

ただ、日フィルのサウンドはシベリウスの透明な音を表現するに足るものであり、7番の終結部を終えたとき、まわりの聴衆から思わずため息が漏れた、その感興には同感すべきものがたくさんあったのも事実。

こうゆうプログラムでこのような演奏なら何度でも聴きたい。

人気blogランキングへ

Banner2_1 人気blogランキングへ


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。