河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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688-トゥーランドット 新国立劇場オープニング初日  2008.10.1

2008-10-03 00:13:30 | オペラ



**注意**
この演出にはネタがありますのでネタばれを好まない人は、当公演計6回が終わってから読んでください。(当公演の千秋楽は10.15です。)
**



2008年10月1日(水) 6:30pm 新国立劇場

2008-2009シーズンオープニング公演
ニュー・プロダクション

プッチーニ/トゥーランドット

演出/ヘニング・ブロックハウス

指揮/アントネッロ・アッレマンディ


トゥーランドット/イレーネ・テオリン
カラフ/ヴァルテル・フラッカーロ
リュー/浜田理恵
ティムール/妻屋秀和
アルトゥム皇帝/ 五朗部俊朗
ピン/萩原潤
パン/経種廉彦
ポン/小貫岩夫
官吏/青山貫
クラウン(マイム)/ジーン・メニング


新国立劇場合唱団(84人)
NHK東京児童合唱団(14人)
助演(12人)
ソロ・ダンサー/竹田真奈美
ダンサー(18人)
アクロバット(2人)
東京フィル(100人(バンダを含む))


新国立劇場の2008-2009シーズンのオープニング出し物、初日の公演に行ってきました。
トゥーランドットはメトのゼッフィレルリの公演が眼底から消えることはありません。事の善し悪しは別にしてあれほど豪華を極めた公演がそのストーリーの内容と一致していた例を他に知りません。
どうしても、その演出と比べてしまいます。多くの人は自分の基準のようなものをもっているのではないでしょうか。
そのようななかでの新国立初日公演でした。
結果的にはかなりインパクトある演出に驚きと少なからぬ違和感を覚えました。なるほどねぇとは思いましたが、感銘とは少し違ったものとでもいいますか。。

演出は人により解釈が異なると思うので何とも言えませんが、とにかく演出中心の公演です。座席は2階中央。
第1幕の第一音が出る前に、まっ暗闇になりそのまま幕が開く。そして、音が出る前に約5~10分の演技が始まります。
無言の劇が10分ほど続いたような気がしましたが、音がないせいもありもしかすると5分ぐらいだったかもしれません。
幕があき、現代風な装いの人たちが多数あらわれます。舞台のセット作りをはじめます。
カフェテラスやら屋台やら、出し物小屋のようなもの、遊園地(たぶん北京の)、ストリート・ベンダーにストリート・ダンス、・・・・
ごちゃごちゃした感じになり、誰か(マイム役)が舞台一番手前のプロンプターのところにボストンバックのようなものを開けて何か紙のようなものを取り出しそこへ置いていき、ようやく音楽の始まりです。
第1幕では舞台中央の屋台みたいな小屋の上にバンダが座ります。この状況は最後まで変わりません。屋台が手前に開きトゥーランドットのシルエットがあらわれる一瞬がある、ぐらいであとはほぼ同じ。ただ、この第1幕の音が始まるとき、登場人物たちは現代風な装いから、一気に昔風な衣装に変わります。トゥーランドットの時代へ。
第1幕が終わっても幕は下りません。登場人物が多数出たまま終わり、幕が下りないのでそのまま引っ込んでいく姿がよく見えます。これも演出。
第2幕もその上がったままの幕から始まります。登場人物がはいりスタート。そして終わる。終わり方も第1幕と同じで幕は下りない。
同様に第3幕も開始されます。そしてリューの最後の歌が終わったところで、マイムが出てきて、プロンプターのところに置いてあったバックに紙を詰め込み蓋をして持って舞台後方へ去っていきます。それと同時に、舞台中央にある屋台の前面が開いた状態のところに居座っていた皇帝アルトゥムが、その階段を降りながら衣装を脱ぎ棄て、エプロン姿になりながら左にあるカフェテラス風なテーブルに歩いていきます。
トゥーランドット、カラフも現代風洋服姿にいつの間にか変わってます。ほかの多数の登場人物も、ピンパンポンはじめ洋装となっております。そのままストーリーは最後まで進み、この時点で、舞台のインパクトにつられてしまい、カラフが発した質問の答えはなんだかどうでも良いような状態で、副次的関心事項のような趣きで、はでにめでたしめでたし。


ここまで読んでくれた人はもうおわかりかと思いますが、この演出は入れ子といいますか、回想と言いますか、二重の時代背景が描写されます。
(自分の解釈としては)

物語のキーはバックです。
第3幕でリューが死んだところで、つまりプッチーニが筆を折ったところで、装いが現代に戻ります。マイムが、プロンプターのところに置いてあったバックに入れたのはプッチーニのトゥーランドットのスコア、それをしまい込み去る。つまりここでプッチーニの作曲したオペラは終わり、アルファーノの音楽に合わせて、時代が今に戻る。というわけです。それでは昔にトリップしたのはいつかということですが、それは第1幕が開き、音が出る前の舞台の演技だったわけです。そう言えば、北京の舞台に洋風なカップルが浮いた感じで歩いていましたが今思い起こすと、現代を歩くトゥーランドットとカラフだったわけです。
それで、音の開始とともに装いも含め昔話となり、いわば先祖のストーリーが始まり、リューの死、プッチーニのスコアが切れたところで、現代に戻る。

以上、自分流の解釈ですが、面白い演出だと思いました。ワーグナーの演出にありがちなひねりが効いていて面白かった。舞台は最初から最後まで動かないので、第3幕冒頭あたりまでくるとちょっとつまらないなぁ、と思ったりしましたが、無論、ストーリーの面白さがそれを救ってますし、なんとかリューの場面まで持ちこたえました。
ただ、面白かったが、感銘とは若干異なる。
劇のストーリーにプッチーニの人生の結末がはいりこみそれを利用した演出になっているあたり、どうかなぁと感じました。
未完のオペラであり、どこまで書いて亡くなったのか、という前提が頭の中になければ面白さも消化不良となるのではないか。ここまでは字幕では救えない、字幕で説明したならば、映画シックスセンスの冒頭にある注意事項と同じになってしまう。なにかがあることがわかってしまう。


舞台には100人規模の合唱、ダンサー、アクロバット、等が上がり、強力な合唱で圧倒。さらにはバンダがちょうど屋台風な小屋の上に陣取り、ホールのちょうど2階席のレベルのあたりであり、強烈なブラスのサウンドを森林浴さながら気持ち良く浴びた。
このめくるめくサウンドである。主役の2人はさっぱりでした。
まず、カラフは声が全く出ない。前に出てこない。舞台の強力な合唱、合奏に埋もれてしまい声が聴こえません。体格はいいのだが、じょうろうで水でも浸してあげたくなるぐらい乾いたような喉と声で、声自体もまるで魅力なし。これでは何か書きたくても書けません。この時期、日本によべるテノールなんていないんだろうなぁというのがわかるぐらいで、それ以上でも以下でもない。
一流どころとの違いは明明白白。こんなにも違うもんか。かといって、じゃぁ国内組にこの曲を最後まで歌いきれる人材がいるか、と問われれば、
Who knows?
だ。
トゥーランドットは第2幕2場からの登場でいきなりハイレベルの歌から始まるわけですが、これがまたさっぱりで、声が小さいというのと彼女もあまり魅力的な声ではない。艶がないし、ざらざらしていて、こっちもさっぱり。なんていっていいかわからない。
今回このトゥーランドットを再認識したが、とにかくうるさい曲だ。音がでかいし、音楽が落ち着かない。プッチーニだって遺作と知って書いたわけでもあるまい。それにしてもピアニシモを聴かせる場面が少なくて騒々しい。
そんななか、リューの場面だけは、聴衆がようやく静かに音楽を聴ける。ホールが静まり、浜田理恵の歌が始まる。声に艶がある、よく通る声、なんだこれじゃ、タイトルロールと交替したほうがいいじゃないかと思えるぐらい。最後まで続くか、という問題点は残るかもしれないが。。

ということで、二人の主役は舞台、演出のお飾り。
昔観たドミンゴ、マルトンと比べちゃいけません。

総じて舞台のおもしろさが勝った初日であったが、オーケストラの充実した響きは、崩れを感じさせる箇所が皆無であり、見事な大音響を構築。また舞台の微妙なニュアンスに合わせた表現も心憎い。
棒に関しては、この指揮者はこのプロダクションのまとめ役ではないんだろうなという雰囲気。合唱をうまくコントロールできない箇所が何回かあった。合唱が良かっただけに惜しい。
この公演は計6回あるのでいろいろとマイナーチェンジをしてくるのだろう。
おわり



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