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1235- 尾高尚忠 交響曲第1番(第1,2楽章)、シュトラウス 英雄の生涯、尾高忠明 N響2011.5.7

2011-05-08 15:36:31 | インポート

2010-2011シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから。
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2011年5月7日(土)6:00pm
NHKホール
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尾高尚忠 交響曲第1番から、第1,2楽章
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シュトラウス 英雄の生涯
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ゲスト・コンサートマスター、ライナー・キュッヒル
尾高忠明 指揮 NHK交響楽団

今日の棒のお父さんの曲が前半にありました。LP、CD等でも聴いたことがなくお初となります。(もしくは忘れている)
以前は第1楽章のみの曲と思われていたのだが、今日の棒のお兄さんが第2楽章を発見し、その総譜の最後にアタッカと書いてあるということで、少なくとも第3楽章の構想はあり、もしくは紛失かもしれないが、聴いた雰囲気では全4楽章の計画であったと思われました。
第1楽章は、聴いた限り、序奏がありその序奏が一度繰り返され提示部にはいる。序奏の中間部的なあたりでトリスタンに非常に似た響きがでてくる。序奏は繰り返されるので2回聴くことが出来ます。
提示部は第1,2主題がでてくるようですが、展開部との線引きが一度きりではよくわかりません。ソナタ形式だとすれば再現部は第1主題ではなく序奏の節からはいってそのあと第1,2主題が出てきて、華々しくというよりも、それまでの鳴りの割にはストンと終わる。
音響的にはほぼ吹奏楽のような感じで、ブラス、ウィンドが始終鳴り響きわたっています。イギリス的ブラバン系の響きではなく、一種重いというか粘着質的で、これは曲想も含めてということでもありますが、どちらかというとドイツ的、いやあえて日本的といったところですね。あえて言えば時代的、時代音楽の様相を呈していると思います。
ブラスのブリッジパッセージは細身になってしまい少しあやしいところがありましたが、曲がそのようになっており単旋律を全奏するあたりきわどかった。
ただ個人的には、誰某の影響とかそういったものをすべて取り払ってすなおに聴くことができるいい曲だと思いました。日本発の交響曲のイメージがあり、後発の作曲家が下敷きにしているところも大いにあると感じました。機会があれば再度接してみたいと思います。
第2楽章はシンプルな形式で明白に第1楽章の風景からもっとも遠いところにあります。第3,4楽章があって然るべき。魅力的な和音で後ろ髪ひかれる思いのエンディングとなりました。
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今日はN響へのゲスト・コンマスとしてライナー・キュッヘルさんが招聘されておりました。日本の最近のオケ界のならわしになっちまったような行動は一切ありません。ほかの団員と一緒にオンステージし、チューニング時も座ったまま。なんのりきみもない、余計な儀式なし、全ては演奏の中にあるのだよみなさん、どうぞみなさんも音楽に集中してください、始まる前からそう言っているようでもありました。音楽に捧げる人生なのでしょう。
N響団員との一体化、なによりも音楽へ尽くすその姿勢に感服しました。
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後半のヘルデンレーベンは久しぶりに聴きました。勇壮さと繊細さを併せ持った音楽で昔はよく聴きました。そのあと饒舌さが少し気になってきたようなところもあり、あえて聴くところではありませんでした。
ですので、生演奏に接するのは久しぶり。たぶんサヴァリッシュ&N響だったか、別ヴァージョン、ショートエンディングのもの、以来ではないかと思います。
前半の音響的雰囲気が後半までひきずられてきているようなところがありましたけれど、メリハリはきっちりとして、演奏もさることながら、魔術師シュトラウスのなせる技でしょう。要所のツボを押さえているというよりも、英雄の伴侶を中心に大きく弧を描いたような印象があり曲の輪郭をとらえて描いた演奏であったと思います。キュッヒルさんのソロも素晴らしく、見た目、こすりの深度がほかのプレイヤーと大きく違うと思いました。ややもすると薄っぺらな音が多い最近のオケの弦ですけれど、彼のように深く、そしてぶれず、集中し、奏すれば、それだけで芯のあるアンサンブル、濃いアンサンブルが日本のオケで容易に可能となるし、生きた演奏となる、そのようなことを実感しました。
ウィーン・フィルの弦奏者全員がコンマスを目指している。そうなのかどうかわかりませんが、もしそうだとすると全員があのような集中力で演奏しなければならない。彼の体の角度はN響の他のどのプレイヤーとも異なる鋭角的ではがねが一本背にとおっているような姿で、ソリストとしてではなく真のアンサンブル・プレイヤーとしての真骨頂を魅せてくれたと思いました。合奏の極みです。このような姿勢とテンションがあって初めてウィーン・フィルの、演奏すればほぼ全て名演奏、のような表現が可能となる。つまりそうでなければ表面は磨かれても揺れ動く生きたアンサンブルはできない、そういうことなのです。
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久しぶりのヘルデンレーベンはいろいろなことを感じさせ思い出させてくれました。前半の尾高の山岳のようなうねりが後半まで尾をひいたようなところがありましたが、どうでしょう。おそらく前半の練習にウエイトがかかっていたのではないか。N響のシュトラウスは悪いところはありませんでしたがメロウな部分でもう少し磨きがかかれば、さらにシュトラウス的まるみを帯びた光が増していたと思います。
ホルン8+1のトップは、ほかのオケからの客演でやや線を感じさせる響きでこれは締まりっけのあるサウンドでいいと思いました。ただどうして自オケのトップが吹かないのか。この曲は明白にホルン大活躍しなければならないのは選曲時点でわかっているはずですし。個人的にバックステージ物語はあまり好きではないのでどうでもいいといってしまえばそれまでですけれど、普段のこのようなときにアンサンブルを磨かなければオケの総体としての個性はますます失われていくと思います。オケの個性、地域性などなくてもうまければいいというのは一理はあるけれど、N響に求めるのは、技術はベースにあるものであって音楽表現としての高みを求めたい。
棒の方の尾高は、少しだけ激情が感じられるようになってきたのかな、もっともっと感情をあらわにしてもいいと思います。音楽の核心的な部分をおもいっきり振りぬくようなアクションがあってもいいと思います。彼のスタイルは35年前から知ってますけれど、年齢を重ねた今の方がやや激情的かもしれません。自分を解放しつつあるのかもしれませんね。そのほうが好きです。
おわり

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