東京・春・音楽祭2011年は大震災の影響をまともに受けて、もろくも悲しく、そして重く重く過ぎていき。
それは決して祝祭的ではなくむしろ何かを後押しするような聴衆の拍手から始まった。
時間が来ていつも通りの場内注意アナウンスが流れ始め、アナウンスが流れている途中そうこうするうちに合唱のほうから一人ずつ舞台に入り始めた。ここでその拍手が起こり始めアナウンスはかき消された。来日演奏団体の場合はよくこのような儀礼の入場拍手があるが、国内団体ではまず無い。そのような異例な、祝祭的なものではなくなにか、後押しをするような聴衆の拍手が続いた。合唱が入りオーケストラが揃うまでその拍手は鳴りやむことがなかった。
チューニングが終わり、3.11のときフィレンツェ歌劇場とともに日本にいたズービン・メータが今度は単身で現れた。一人ゆっくりとポーディアムに向かう。シリアスな表情だ。演奏前なのにブラボーが飛ぶ。その勇気、信念、意志、指揮者と聴衆、日本人からの感動、賞賛のブラボーにほかならない。
メータは一度オーケストラの方を向いたがおもむろに聴衆に向きを変える。下手からマイクを持った通訳がメータにそのマイクを渡した。メータの淡々とした中にもこれ以上ない悲しみの分かち合いそして悼みのあいさつ、あまりにもシリアスな表情。メータのあまりにも深い思いを6列目に座っていた自分はひしひしと感じきった。他人(ひと)の悲しみを自分のものとしたメータ、否、地球スケールでの友と友そのような思いのあまりにもシリアスな表情にみえた。そしてまさしくベートーヴェンが描ききった強い意志の曲が今から奏される、これ以上ふさわしい瞬間はない。
メータは聴衆とともに黙とうをした。起立した聴衆、そして舞台のオーケストラと合唱団、その全員起立の様は、全てが同じ高さにあったように思え、聴衆と舞台の隔たりがなくなり一体化したように思えた静かで深い黙とうが、この静寂を破らないでほしいといったそのような思いが広がったように感じた。メータの意思がすべてに伝わった瞬間でした。まさに神々しいメータ。
そして、深い鎮けさからまるで催眠術が解けたかのように意識が覚醒した聴衆はこのあとの極度に緊張をはらんだメータに再度、魔術にかけられるとは、もしやある程度わかっていたのかもしれない。メータが聴衆に背を向け追悼の曲から演奏会は始まった。
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東京・春・音楽祭2011
東北関東大震災 被災者支援チャリティー・コンサート
ズービン・メータ指揮/NHK交響楽団
特別演奏会
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2011年4月10日(日)4:00pm
東京文化会館
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黙とう
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バッハ アリア
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ベートーヴェン 交響曲第9番
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ソプラノ、並河寿美
メゾ、藤村実穂子
テノール、福井敬
バス、アッティラ・ユン
合唱、東京オペラシンガーズ
ズービン・メータ指揮
NHK交響楽団
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第4楽章の歓喜の歌の冒頭がこれほど悲しく聴こえるとは非常な驚きであった。異常な事態における研ぎ澄まされた神経が耳をもそのように支配してしまっている。わかっているとはいえこのようなイメージを構築させていくメータ、音楽というものの何が側面で主なのか一種、名状し難い悲しみの混乱が自分の頭を覆う。
この日ほど、第九の第1,2,3楽章の巨大さを感じたことはない。プレイヤーの感情の吐露がもろに音圧となって前面に出てきている。ピアニシモでも全力で奏すればこのようになる。ましてこれはN響でなければならない。折り目を求めそしてそれを越えた見事な演奏であったと言わなければならない。燕尾がもはや喪服であるように思えた深い悲しみをこの音楽で越えていこうとする意志。
メータがこうやって、やってきたからN響からこのような音が出る。圧倒的な第1楽章。音がぎっしり詰まっている。細部へのこだわりはなく一見大振り実は繊細な棒で音楽の大きな流れを造っていく。第九ソナタ形式の真髄を音の塊で表現。
メータの棒は真後ろから見ると大振りのように見えるが、少し角度を変えてよく見ると非常にデリケート。フレーズによって強く角度をつけたり滑らかに振ったり、右左ポイントを押さえた指示、遠近のメリハリが効き、結局、ほれぼれするようなバトン・テクニックであり、息の長い第1楽章を大きな縁取り、フレージングで強靭な流れで振り切る。お見事の言葉だけ。
第2楽章スケルツォもいきなり音がぎっしり詰まっている。今日のN響の音圧充実度!は大変なものであり、このような状況下のチャリティーコンサートだからということもあるし、さらに言えばホールが上野だからかもしれない。響きの充実度は素晴らしく、またピッチも見事、両者のすごさの証明は第1楽章、そしてこの第2楽章の終結の最終音のあとの残響の見事さを聴けば一耳瞭然。ホール、オーケストラ、一体化した充実の響き。
それでこの第2楽章ですがここでもメータのバトンテクニックが素晴らしい。バトンのためのバトンではなくて、そのバトンで何を表現したいか。突き詰めればそうなるんでしょうが、あまりにも見事な棒さばき。このスケルツォ、トリオでのバーをどのように区切って表現すればいいのか、こういうのもなんだが、知り尽くしているわけですよね。棒に興奮。オーボエ・トップの方のツイッターは有名ですが、彼自身棒振りとして国内行脚をしており、その彼がメータの棒を興奮気味にツィートしているのもむべなるかな。
そして、第3楽章こそは祈りの音楽。メータの棒は15分かかっていないかなりの高速モードなんですが、そのようなことをまるで感じさせない異様に丁寧で深い、粗末なところが微塵もない祈りの音楽となっておりました。変奏間のウィンド(含むホルン)ハーモニーの美しさ。聴きごたえがありました。特に演奏後のスタンディングはオーボエが一番先でしたけれど、ホルンパートは1番と4番がスタンディングのご指名を受けていて、もちろんそれはこの第3楽章のウィンドとしての彫りの深いソロパートの見事な演奏に対してのものなんでしょう。
この楽章がいかに見事な祈りの音楽であったとしても鎮魂にはいまだはるか遠い長い時間がかかる。ベートーヴェンの音楽がメータとともにその第一歩を踏み出させてくれた。そう思いたい。
この第3楽章の始まり前にソリスト4名が入場しましたが拍手はなくむしろこれは自然な感じがしました。メータの棒ではこうなるんですね。
そして第4楽章へはアタッカではいるわけではありません。呼吸を置き音楽の溜めを作りそれから音楽が響きます。どうってことないかもしれませんがやはりメータによりいろいろなことが考えこまれていると思います。
第4楽章も圧倒的な音圧がプレイヤーの熱い意志を感じさせます。それを越えたのが今日の合唱、明瞭な響きが非常な圧力で前面にでてくる。これはメータの力というしかない。合唱のコントロールと開放。歓喜の歌は一緒になって歌いまくっていたし、オーケストラを少し抑え気味にしてコラールを強調。そして合唱とオーケストラの見事なアンサンブルバランス。うーん、すごい棒だなぁ。
全員、全力投球、力を出し切っている。ここまでさせるメータはすごい。完全な歓びというよりも希望への道。そしてそれに向かう意思の力。
ソリストはまず巨大なアッティラ・ユン、殊の外、安定感と柔らかさがある。第九では出方がかなり難しいと思いますがこのようなタッチで歌いこまれると妙に安心感が出てきます。
並河、藤村、福井が硬質に聴こえてしまうぐらいの柔らかさなんだが、変な違和感はなく百戦錬磨のバイロイト組といったところか。いずれにしてもこの日の4人ともに全力投球の熱唱だったと思います。非常に熱かった。
今日のメータはコーダ終結部最後の小節でテンポを少し落としましたけれど、ほかはあまりアチェルランドしたりテンポの揺れをさせません。どっしり構えているというわけではありませんが、音楽の流れ、輪郭、縁取り、そのようなものを重視して音楽を進めていきます。遠近感、ダイナミクス、柔らかいフレージング、いろいろ感じさせます。全体のスケールの大きさにほれぼれします。
この楽章のコントラバスによる最初の歓喜の歌については冒頭に書きましたように悲しみの音楽に聴こえました。音楽の振幅を感じました。フルトヴェングラーだけがなしえた音楽の表現の多様性をこのメータがここでそのことを思い起こさせてくれたのも大きかった。
N響の上野での響きは格別なものがありましたけれど、それもこれもメータが単独で乗りこんできてこの音楽を作り上げたその力の大きさを忘れるわけにはいきません。
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演奏後の爆発的な拍手はとどまるところを知らず永遠に続きました。聴衆がほぼ全員すぐにスタンディングして拍手をするあたりも普段の演奏会とはかなり異なり、それでもやはり祝祭ではなく悲しみでありシリアスなメータの表情は、引けた後のカーテンコールにおいても同じであった。聴衆に向けられた深いまなざしは最後まで変わらなかった。素晴らしい演奏会でした。
自分もこの演奏会を聴くことにより微力ながら被災地へのメッセージが形をかえて力になってくれればと願い、熱狂をあとにした。
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この日の演奏予告のブログはここ。
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TBありがとうございます。
詳細なレポを拝読して感動がよみがえるようです。
素晴らしいコンサートでした。
今後ともよろしくお願いいたします。
コメントありがとうございます。本当に素晴らしい演奏を聴けてよかったと思います。
kametaro07さま、うさこさまにコメントをいれました。
メータさんの来日は、まさに「奇蹟」で、復活祭が近づいていることを思いました。
ワーグナーのオペラをはじめてホールで観ようと、夏のローエングリン公演を申し込むつもりでした。幻になってしまいました。バジルファルはまったく聴いたことがありませんでした。
どの演奏家の演奏をお聴きになっていらっしゃるのですか?
今年の聖金曜日は、私うさこの誕生日です。
バジルファルを聴き(1日では聴き切れないと思いますが)、自らをかえりみたいと思います。
メータ大ファンの私もこの日の演奏会に行きました。私の思いをものの見事にブログに書いていただき読むたびに涙です。
コピーをして友人に送りましたが、彼女もいまだに泣き続けています。
だいぶ前になりますが、河童さまが書かれた”メータのテニス肘”を読んで以来、河童さまのブログには立ち寄らせていただいています。
メータのNY時代の演奏会をだいぶ聞かれたようですが、あの当時と現在の彼の指揮ぶりの変化も正しく受けとめていただいたようで、ブログを読んで感じ取れました。
私も随分、ニューヨークのメータの演奏会へ通いました。来週は彼のアイーダとコンサートを聴きにフィレンツェへ行きます。メータがこのブログを読んだらどんなに喜ぶか察しがつきます。つたない英語力ではありますが訳して渡してきたいと思います。
ブログ読んでいただきましてありがとうございました。
私も数限りなく演奏会を聴いてきましたが、今回のメータ出現はあとあとまで残るものとなりました。割と素直に文章にしたつもりです。
A-miさまと異なり熱狂的なメータ・ファンというわけではありませんが、エイヴリーのご近所に住んでいてニューヨーク・フィルのサブスクライバ―でした。時期的にはメータ真っ盛りの時期です。彼はCD録音を誰それの全集を作るといったことにあまり感心がなく、自分の共感の度合いで作っていくようなところがあります。ライブはだいたいいいですね。録音に収まりきらない表現。シェーンベルクのグレリーダーとかエルガーの1番、それにワルキューレの第1幕なんかは忘れがたい演奏で耳に残ってます。
訳を渡していただけるということで大変うれしく思います。エンジョイ、フィレンツェ!
NYフィル退陣後の翌年からはもっぱらイスラエル通いとなりました。そのイスラエルで今年は久々に”グレの歌”を演奏します。来年はウィーンフィルともこれを演奏する予定となっています。楽しみにしたいと思います。
フィレンツェオペラの楽員から連絡がありました。メータは東京公演について誰からも何も聞いていないとコンサートについての反応をとても知りたがっている様子。多少の反応のコメントを送りましたが、河童さんのブログの英訳を待っています。24日に放送される第9の録画とともに持っていきます。
今後もよろしくお願いします。
わたしも是非とも届けていただければと思っております。メータの音楽の力を非常に感じた演奏でしたし。よろしくお願いします。
メータ時代のニューヨーク・フィルの演奏評についてはニューヨーク・タイムズの切り抜きをたくさんスクラップ・ブックとして綴じてもっております。特に悪い評はなく、エンタメの集積街マンハッタンの音楽シーンや、流れのようなものの中にいなかった人たちの無理解に負うところが大きいと感じてます。
演奏会を間際に知り、チケットを探しましたが残念ながら入手することがかなわず涙をのみました。
そして昨日、NHKの放映で演奏会の一部始終を聴くことができました。
なんと素晴らしい演奏だったでしょう!
正直、幾度となく聞いたはずの第九をあそこまで襟を正し、息を飲むようにして聴いたのは初めてのことでした。
音楽の神髄ここにあり。
録画の画面のこちら側にも、メータの気迫がN響の緊迫感がひしひしと感じられるまたとない演奏でした。
できれば早朝でなく、もう一度誰もが視聴できる時間帯での再放送を望みたいところです。
未曽有の震災のあと、世はチャリティーばやりですが、言葉に左右されない音楽にこれだけ力があるといういうことをいろんな人に聞いてもらいたい――そんな思いを強くしたひと時でした。
レポート、ありがとうございました。
コメントありがとうございます。
私はホールで聴きましたが、いつもですとどうでもいいようなちょっとした動きなどが、あとですべて思い出してしまうといった非常に精神的に敏感になっていたんだと気がつきました。ですから気持ちを一度落ち着けてみたらこんな感じのレポートになってしまいました。
実は、最初の拍手で既に目がくもってしまっていました。