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とびとびになってますが昔の演奏会のことを書いてます。
今書いているのは1983-1984シーズンの演奏。
今日は久しぶりに室内楽です。
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1984年3月4日(日)3:00pm
エイヴリー・フィッシャー・ホール
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グレイト・パフォーマー・シリーズ
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ベートーヴェン/三重奏曲Op.87
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エルンスト・クレネク(クルシェネク)/
弦楽三重奏のための「バッハを讃える小音楽ブーケ」op.122
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ヒンデミット/弦楽三重奏曲第1番Op.34
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モーツァルト/弦楽三重奏のためのディベルティメントK.563
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ヴァイオリン、ギドン・クレメル
ヴィオラ、キム・カシュカシアン
チェロ、ヨー・ヨー・マ
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本質的に明るいのだろう。この若い3人にはなんのわだかまりもなく、ただひたすら明るい音楽が流れ出る。
クレメルの音は細く、鋼のようにとぎすまされ、自分の音、自分が出している音を冷静に聴いている。
ヨー・ヨー・マはいつものように非常に安定感がありヴァイオリンのように軽く明るく歌う。
そしてチェロとヴァイオリンの間にするりと入り込むようにヴィオラが女性らしく歌う。
ここには音楽の中にある、ある種の伝統とは無縁のところで発生している音楽が存在している。
本質的にネアカの演奏。
例えば、いくらうまく、いくら丁寧にメヌエットを演奏したところで、それらは全く自分たちのなかからのみ発生している。音楽にまとわりつくある種の雰囲気のようなものは自分たちから意識して作っていかなければならない、とすればそれは大変なことだろう。
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たまにこのように昼間の演奏会に行くのも良いものだ。久し振りに光を浴びると本当に土日以外、外の光をほとんど浴びていないということがよくわかる。このようなときは暗いホールのなかにはいって行くのがちょっといやになる。まぁ、それにしても今日の演奏は明るく晴れやかであったのでそれなりに楽しめた。
おわり
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以上、ほぼ当時のままの駄文であるが、一部、未来のことを言い当てているようなところもありびっくりしている。
昔は、クレメルもマも将来の大器を約束されているような雰囲気でまわりもそのような目で見ていたはずだが、いつのころからか二人とも民俗音楽系というかどうも妙な方向にいってしまい、もう戻ってこないのかしら?
オーソドックスな曲や演奏には、天才ゆえ飽きた?演奏史が途切れてしまうようなショックはマに対して大きいが、演奏とは消耗だったのだろうか?
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