真夏の暑さが続いているが、この日はようやく芸術の秋、個人的には事実上のオープニング・ナイト。
2010年9月2日(木) 7:15pm サントリーホール
ブルックナー 4つの管弦楽小曲
望月京(もちづきみさと) ニグレド(World premiere)
ツェムリンスキー 抒情交響曲
ソプラノ、カリーネ・ババジャニアン
バリトン、トーマス・モール
クリスティアン・アルミンク 指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団
抒情交響曲を聴くのは二三度目だと思うのだが、どうも音の強弱でいうとオーケストラの遠近と歌のそれが同じようなベクトルの箇所が多く、声があまり聴きやすい曲とは言えない。タゴールの詩をドイツ語にした響きも必ずしも明瞭に美しく聴こえるわけではなさそうだ。男声にテノールではなくバリトンを配した意図はわからないが、大地の歌のような輝かしいテノールを模したものではない。7曲まであるので、バリトンから始まって最後もバリトンで終わる。マーラー大地の歌への想起は完全に一致するというものでもない。でもそれやこれやツェムリンスキー自身、一番よくわかっていたはずでオマージュどまりであるはずもない。
第一曲のバリトンからオーケストラに埋没してしまう声が聴きにくいながら、リブレットを追いテクストの内容をかみしめると、なんというか、マーラーの、妙な言い方だが「死の軽さ」のようなものとは別の重い、説得力のある言葉の重さにうたれる。作曲家の管弦楽と声の向きの同方向性、一体化した表現、動きの同質的傾向などに、驚かされる。決して分離したものであってはならず、一緒になって表現されえなければならなかったもののように聴こえる。これはこれで音楽の推進力というものを実感させてくれる。テクスト必携の曲なのかも。
このバリトンのトーマス・モールはパルジファルも歌っているようなのでテノール域もありなのか、ヴィブラートを排した表現は高音部分でゾクゾクする個所もある。技術をごまかさないスレスレの表現ではある。最後の7曲目の音楽への一体化は見事。
曲の雰囲気だけでいうと、第6曲でエンディングをむかえるような様相がある。ソプラノのババジャニアンのドイツ語はどうなのだろう。響き、ヴァウエルとコンソナントのドイツ語的美しさがあまり聴こえてこない。クリスタルのような響きが欲しいところだ。この第6曲が詩だけでいうと一番短い。朝はすべてを忘れ去らせるものなのか、終曲近くまで来ると切れ目のない音楽の感興が自然と盛り上がりを魅せ、これはこれで音楽の流れ、時の積み重ねというものを感じさせてくれる。
ツェムリンスキーのうねりはボテ系でわりとわかりやすいもの。ただし簡単に馴染めるような曲想というわけでもない。第1曲の冒頭は長い序奏ではじまりここの意思は明確。これが全体の芯をなす。終曲での回帰にうまくまとまる。管弦楽と歌が一緒に動くツェムリンスキーの音楽はやはり独特のものであると言わざるを得ない。
終曲後の圧倒的に長い空白は、今聴いたものが全てもう一度頭の中に再帰させるに十分な時間であったと言えるだろう。
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前半のブルックナーはかわいらしい習作で、音になって味わえるだけで良しとしよう。ただし、ソロ・ホルンがかなり遅れ気味にフレーズを刻むので、だれることはないのだが、全体の曲想との統一感が壊される。あまり好ましいとは言えない。練習時の指揮者の明確な指摘が欲しいところだ。
2曲目のニグレド。ユングのからのイメージの曲。深刻過ぎるというか、閃きの音楽寸前のような気がする。音楽力的爆発がない。技に偏りすぎた。
おわり