2006年のニューヨーク・フィル来日公演のスケジュールは以前書いた。
ニューヨーク・フィル2006-2007シーズン 来日公演予定
日本7公演。東京公演が5公演。うち3回を聴いた。
5日、6日のあとの8日が河童にとっての初日。
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2006年11月8日(水)7:00P.M.
東京オペラシティ
コンサート・ホール
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ウェーバー/オベロン序曲
ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第3番
ピアノ、ジャン・フレデリック
ラヴェル/スペイン狂詩曲
ストラヴィンスキー/火の鳥、組曲(1919)
(アンコール)
ビゼー/アルルの女よりファランドール
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ロリン・マゼール指揮
ニューヨーク・フィルハーモニック
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2年ぶりに聴くニューヨーク・フィル。いつものことながらわくわくする。
今日は自分にとっての初日である。全7公演のうち東京公演が5公演。全て初台のオペラシティー・コンサート・ホールで行われる。この時期、ウィーン・フィルの来日公演とバッティングしており、あちらのほうはサントリー・ホールでの公演となっている。今回は指揮者が好きでないアーノンクールということもあり、あまり食指が動かない。
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この初台のホールは、オペラシティ・コンサート・ホールである。紛らわしい。反対側に回ると新国立劇場のオペラハウスがあるわけだから、ますます紛らわしい。このホールにきたのはギュンター・ヴァントのブルックナー9番以来だ。
それはそれとして、とにもかくにも第一音がでた。いきなり問題である。座席が一階の前から16番という絶好の席であるにもかかわらず、音がよくない。特にティンパニの音が飽和して聴こえてきて聴きづらい。
舞台を見てみると、オーケストラの舞台の左右は上の席がかぶってしまっている!そのかぶった場所でティンパニを思いっきり叩いてしまったら音がすぐに跳ね返り行き場を失ってしまい、潰れたような音になってしまう。
このホール、誰が設計したか知らないが、過ちは犯してしまってからでないとわからないものなのであろうか。今日はそんなコンディションのなか耐え聴かなければならない。唯一、見晴らしは抜群であるが。
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4本立てのプログラムはごった煮という感じである。この日以降もこのようなプログラムである。初めてオーケストラを聴くに人間にとってはいろいろな曲を知ることができてよいかもしれない。デュトワの、同じような長さの曲3曲主義、と違ってバランスは悪くない。しかしあくまでも演奏旅行用プログラム。
マゼールは一見レパートリーが膨大のように思われているが、良くやる曲、好きな曲は比較的限られている。それにしても昔から変わらぬ神業の暗譜棒は健在である。火の鳥における棒の使いはまさに神業。スコア上の複雑な拍子を完璧に振るだけではなく、各楽器への適切な指示などあきれるほどのすごさだ。そしてパッセージを自由自在に操る棒。マゼールの音楽において、ときとして表現の大胆さがあげられるが、彼の音楽に即興性はない。局部的に‘今日の解釈’のような棒の振りがあるが、その棒が日常から完璧であるため、奏者がそれに追従した演奏を行っているだけ、その結果の音である。大胆な棒ではあるが、指揮者の即興性のような解釈を奏者が冷静に演奏しているだけである。音楽が生き返り再現芸術になっている、というよりも‘今日のユニークさ’が面白いといった感じである。
音楽の素晴らしさと棒芸の両方、神技に近いものを見聴きできる幸せに浸ったほうがこちらとしても得策だ。
彼の棒を30年以上見て聴いてきたが、変化はあるのだろうか。絶え間ない変化が彼の特色なのかもしれない。そんななか、なにかひとつ音楽に呼吸が出来てきたのだろうか。年齢とともにテンポがスローになる指揮者はわりと多い。今のところマゼールはそのような傾向は微塵もないが、ただひとつ呼吸に変化がでてきたのかもしれない。見て聴いていると彼の場合、人為的な装いが無くもないが、音楽の呼吸、間、のようなものにこちらがなにかほほえましい心の温かさを感じたりする。以前はそのような観点でマゼールを聴いたことなどなかったような気がする。
スペイン狂詩曲の細やかさは、女性奏者が半分近くを占めるようになったこの状態にふさわしいものなのかもしれない。各パートが他パートに積極的にアンサンブルする姿が遠い昔はあまりなかったことだ。彼らにウィーン・フィルのような体でアンサンブルする姿は必要なかった。音楽が意識的にうたいはじめた。もちろん、スタンリー・ドラッカーだけは昔から変わらず大きくのけぞり吹きまくっているが。
それやこれやで、細やかな弦と、平然と吹きまくるブラスの間に乖離のようなものも少し見えるような気がする。この乖離の接着剤が木管であるわけだが、実力が並列状態の為、いやがうえにも機能的なハーモニックスが強調されてしまう。昔からそうであるが。
ホルンは金管よりである。超人プレイヤーのフィリップ・マイヤーズのヴィヴラートを全く強調しない姿勢はすごいし、腕と口も金管よりのほうだ。
ベートーヴェンのピアノ協奏曲はピアノが出てくる前に、オーケストラの音をたっぷりと聴くことができる。ホールのせいで響きが飽和状態であるため、全体に聴きづらい部分があるもののこのホールもだいぶ鳴り出した。この若い二十歳のピアニスト、ジャン・フレデリックにとってベートーヴェンの音楽の呼吸の難しさは、これからの人生のテーマであるだろうし、この曲に何回も挑戦してほしいものだ。モーツァルト的な音価の等分化表現の難しさを克服するためには全神経を指先に集中させなければならないし、同時にベートーヴェン特有のたたきつける音のなかにある嵐の呼吸を表現しなければならない。意欲的なプログラムであろう。
最初のオベロンはいきなりマイヤーズの音から始まる。ゆっくりした音の進みがドイツの森ではなくマンハッタンへ聴衆をいざなう。これはこれで良しとしよう。
弦の響きに香り、湯だつ、微妙なニュアンスを求めても始まらない。もともとそのような演奏を毎日してきたわけでもない。だから別の良さを探すべきなのだ。弦は各パートにとても張りがあり、各パート・セクション・楽器ごとのハーモニーが強調されて和音の中身を透かして見ることができるようで非常に心地よい。人はこのような音色を‘機能的’と呼ぶのであろう。
アンコールのファランドールの音響の海原に身を浸し帰路についた。
おしまい
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