リングのジークフリートの第3幕は、神々の黄昏に突き出ていると思う。特に目覚めの動機のあたりからはほぼがらりと変わる。
第1,2幕の鉄火場、黒い森、あたりと様相が異なる。演出次第ということもあるが、舞台を見ながら聴くとなおいっそう、そう感じる。それまでの縦の移動が横の静止、そして展開。
ジークフリートは第2幕まで聴いて、一度自分の耳の幕を下げるべきではないか。そのあとリフレッシュして第3幕にはいるべき。などといつもは思っているのだが、今回ばかりはそうもいかなかった。
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カイルベルトの振る1955年バイロイト音楽祭のステレオ録音のリング・サイクルを聴かないということは、クラシック・ファンをやめる、ということと同義語だ。
などと言うつもりはないが、聴かないてもない。
レコ芸の年間大賞のタイミングには神々の黄昏が間に合わなかったようだが、このたびめでたく出揃った。
ラインゴールド、ワルキューレをわりと連続的に聴き、ジークフリート第1幕の人間業とは思えない、ヴィントガッセンの声を聴き、立ち止まってしまった。
この押される圧倒的な迫力からほとぼりを冷ますには一週間の冷却期間が必要だ、などと勝手に頭がしびれた。
第1幕後半は大車輪のような鉄火場オーケストラの火を噴く沸騰もかなりの聴きものではあるのだが、ヴィントガッセンのジークフリートは、まさしく恐れを知らぬ鉄の声帯をもつスーパーマンだ。アンビリーバブル。聴く方も休養が必要だ。
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一週間のほとぼり冷却期間を置き、第2,3幕に突入してみた。目覚めたヴァルイナイのブリュンヒルデの声帯にまたこちらがぶっ飛んだ。
たしかにワルキューレの第2,3幕で一度はぶっ飛んではいたのだが、連続視聴は可能だった。
しかし、寝て覚めたヴァルナイが本気モードで目覚めたらこっちは気絶悶絶状態。
ヴィントガッセン。ヴァルナイ。この二人、人間とは思えない。第3幕フィナーレの最高音最頂点音までもっていくエネルギー、芸術が肉体的エネルギーの快感に変わる瞬間、アンフォアゲッタブルだぁぁ。
さすがに最後の頂点音をヴィントガッセンはオクターブ下げているように聴こえるけれども、それをおぎなって余りあるヴァルナイのブリュンヒルデ馬力。人間ではない。
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「ワーグナーの音」のようなものを、リングの場合では、神々の黄昏第2幕の冒頭のコントラバスによる本格的低音の織りなす響き具合で、これこそが、ワーグナーの音、などと感じたりする。しかし、1955バイロイトはジークフリート第3幕までしか聴いていない。凍結状態だ。
ワルキューレ第1幕終結のジークムント、ジークリンデのあとオーケストラがもつれたりしても、芸術の表現は表面的に磨かれた技術のレベルを競うものではないのだよ、もう一つの観点があって、意志の表現方法はこのようにやるもんなんだよ。とカイルベルトが言っているように聴こえる圧倒的説得力に負かされながら、それでも本格的なワーグナーの音に出会うためには、このジークフリートの第3幕まで待たなければならない。こなれた非常にいい響きになってきた。
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ということで、
ヨーゼフ・カイルベルト指揮
1955年バイロイト音楽祭
ニーベルンゲンの指環
実況生中継
は買って聴いてのお楽しみ。
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テスタメントに一言苦情。
画竜点睛を欠く。
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音楽の流れをCD収録時間のからみでぶった切る暴挙。について。
ラインゴールドは2枚で問題なし。
ワルキューレは第2幕を2枚にしているだけで問題なし。
神々の黄昏は、プロローグと第1幕を2枚に収録。あとは問題なし。
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