26日の記事「講演会の講師への質問の仕方、失敗の巻」では尾張町村議会議員研修会での松本誠さんの講演の内容の一部を紹介させていただきました。質問させていただいたこともあり、一方的に書いたままでは申し訳ないような気がして、ブログの記事に書いたことを連絡させていただきました。
松本さんの返事の一部を、ご本人の許可を得て、紹介させていただきます。
門原さんが「政策選挙を否定する」立場から発言されているとは毛頭感じませんでした。問題は、「政策選挙とは何か」ということなのでしょう。その意味で、抽象的な公約を並べる従来の選挙は政策選挙とはいえないと申し上げたつもりです。
その意味では、マニフェストとは「従来の“公約”に期限と金額の説明をつけなければならない、という制約を加えただけのもの。せいぜいこんなものだろ」という考え方とは、かなり違っています。たとえば、従来の公約に「住民参加を推進するために、○○年までに住民自治基本条例を制定するとともに、参加の仕組みとして公募の住民会議を発足させる」などと、住民会議の機能や権限、運営のあり方などについての考え方を明記するような政策の提案は、これまでの公約という代物とは根底から異なります。
要は、首長や議員に政策立案能力があるかどうかが問われているのだと思います。
とはいっても、地方選挙、とりわけ地方議員選挙における「ローカルマニフェスト」のあり方はまだまだ試行錯誤の段階です。それぞれの地域で創意工夫し、政策選挙とは縁遠い地方選挙を変えていく試みが重要かと思います。
東郷町では8月に新しい市長が現職を破って誕生したと聞いています。ぜひとも、地域の中で首長や議員を政策で選んでいく風土を構築していただきたいと思います。地方選挙がこれまでのような実態のままでは、国政選挙も根底から変えることはできません。地方の現場で新しい選挙のやり方が根付いていったときには、この国の選挙も大きく変わるはずです。
また何かの機会に、そうした議論をご一緒にできたらと思います。
引用の第2段落にある「従来の“公約”に期限と金額の説明をつけなければならない、という制約を加えただけのもの。せいぜいこんなものだろ」は、私の26日の記事に、私のマニフェストに対する考えを正直につづったものです。このように、マニフェスト推進の立場の方を侮辱していると取られても仕方がないような文章を書く者にも、なおアドバイスを送ってくださったことに心底感激しています。
率直に言って、私には“マニフェスト”なる言葉への侮りがありました。時の権力者やマスメディアが、従来聞きなれなかった横文字を使うことに対する警戒感があったことも確かですが。
松本さんの返事を読んで思ったことは、政策本位の選挙を推進する動きが、様々な立場から、いろんな用語を使って出されれば良いんじゃない?ということ。
もちろん、私自身も含め、日本共産党の候補者は政策本位で選挙戦をたたかっている、という自負はあります。
松本さんもお認めの通り、地方議員選挙におけるマニフェストには、首長選挙以上に解決しなければならない問題が多いことも確かです。議員は、東郷町議会でいうと一人一人は20分の1にしかすぎないわけですから。問題は、いかに政策実現に向かって行くのか、ということ。「議員には首長のような権限(予算編成権など)がないから首長選挙のような目標を区切ってのマニフェストは意味をなさない」と思いこみ、思考停止に陥っていたのかもしれません。
今思えば、「住民との直接契約というマニフェストを盛り込んだ予算案、条例案を議会が否決するのは、どんな意味を持つのか?」という疑問は、“良い政策の実現”を望む住民にとってはどうでも良いことなのかも。
マニフェストを掲げて当選した首長の提案であっても、やはり政策を持ち一定の支持を受けて当選した議員たちが十分吟味した上で“不適切だ”と判断すれば否決する。そんなことがあっても何らおかしなことではない、ということでしょう。マニフェストという語が使われるときに強調されることが多い“住民との契約”という言葉に気を取られ、その契約に横槍を入れる議会の存在とは、というふうに考えてしまっていた。今まででも、候補者は自分の信条や政策を広く有権者に知らせ、それを元に支持を得て当選してきたはず。二元代表制だから、町長と住民との契約の方が、議員と住民との契約より上、ということが有り得ないのは当然。
対住民ということで考えると、ビラの自由な配布を認めない公職選挙法のあり方が問題として絞られそうです。
いつか松本さんと議論ができるよう、マニフェスト選挙の推進を目指す人たちの考えを学習したいと思います。
読者の皆様、まだまだ経験が少ない議員が、専門家との対話を通じて考えたことを、これまた勝手に書いたものとしてお読み流しください。