ゲーテ『イタリア紀行』と徐霞客『徐霞客遊記』の比較。これが互いにとって唯一無二の取り合わせかどうかはわからないが、試みれば興味深くはあろう。
“融即”と“前論理(的)”の二つの概念は非西洋世界の、しかも歴史的過去を観るさいには、両方が常に必須かどうかはわからぬながら、観点として極めて重要と思うのだが、この筆者にして完全には脱しえていない――書名を見れば判る――西洋中心主義の自覚と反省が、すくなくとも戦中から戦後すぐ生まれの中国学者は、ついに頭に入らなかった人が少なからずいるようだ。西洋をAとして中国を非A(だから優れている)という考え方は、AをAであるという認識で受容する時点ですでに西洋中心主義である。中国にもAの要素はあった(から西洋より遅れていたわけではない、価値が低いわけではない)という議論などもう論外である。
(岩波書店 1953年9・10月)。
(岩波書店 1953年9・10月)。