書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

福本勝清 「アジア的生産様式論と日本の中国史研究」

2018年06月24日 | 東洋史
 『明治大学教養論集』370、2003/3掲載、同誌51-89頁

 再読
 ①家父長的家内奴隷制の議論は理論的に不十分で最初から無理があった。
 ②「総体的奴隷制」の「奴隷」も「奴隷制」も実を言えば比喩だった。
 ③個別人身支配体制の議論は世界史の基本法則における最初の階級社会としての奴隷制の一つという意味では家父長的家内奴隷制や総体的奴隷制と変わらない、増淵竜夫には基層レベルでの地域社会における自立的な秩序形成を否定するような議論は根本から誤っているし名称がミスリーディング(金谷がここで代わりにさらに一歩踏み込んで言えば扇動的)だと、当時から酷評されていた。

 以上、金谷の関心のあるところだけを抄約した。もともと増淵論を除き、前提と結果が同じ議論ばかりで史料はその最初から決まった結論を決まったように探して証拠にするために使われているとしか見えなかったので、まったく興味はなかった。


江口寿史 『江口寿史の正直日記』

2018年06月24日 | 芸術
 山上たつひこ氏原作の『冷馬記』の作画担当を降ろされた経緯がよくわからない。いや、降ろされるのは客観的に見て仕方がないが、ああいう経緯をたどることになった江口氏の側の事情がいまひとつわからない。この人のこれまでの作品の作り方自体がわからないと言ったほうが正確か。自分のなかにも多少存在する部分を拡大して想像してみるに、これも私がひそかに想像するところの池大雅のような気質と仕事・生活態度なのだろうか。

(河出書房新社 2015年6月)

ウィキペディア「楊家将演義」項

2018年06月24日 | 文学
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E5%AE%B6%E5%B0%86%E6%BC%94%E7%BE%A9

 私の持っているのは明・熊大木編とされるものの活字本だが、遼を示す言葉が「番」になっている。(維基文庫の版でもそうだ。)「蕃」でも「蛮」でも「狄」でも「戎」でも「胡」でもないのはなぜか。
 ライトノベル化されたと同項にはあるが、原作自体がある意味、挿絵こそないが(私の持っている版にはない)、私の知る演義物のなかではある意味ライトノベルに属する。文体も相応にライトで読みやすい。場合によっては段落ごとに「却说」(ところで)とあっ、気息奄々といった趣きもある。