書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

義江明子 『天武天皇と持統天皇 律令国家を確立した二人の君主』

2014年07月24日 | 日本史
 「袮軍墓誌」の「日本」について、「東方の意味で百済をさすらしい」としてある(47頁の注「『倭』から『日本』へ」)。本文では「『日本〔引用者注。“ひのもと”のルビあり〕』は、『日の出るところ』という意味で、中国の古典や仏典で『東方/東の果て』をさす言葉である」とある(同頁)。これは同墓誌における「日本」は普通名詞もしくは朝鮮半島上のある場所であって日本(倭)をさすものではないとする東野治之説と同方向上にある解釈である。東野治之「百済人袮軍墓誌の『日本』」(『図書』2012/2、2-4頁)、また同「日本國號の研究動向と課題」(『東方学』125、2013/1、1-10頁)。

(山川出版社 2014年6月)

陳捷 『甲骨文字と商代の信仰 神権・王権と文化』

2014年07月24日 | 東洋史
 第1頁の「緒論」、冒頭からほどもない行に、「(孔子は)老子と会ったらしい」と書かれていて、ちょっと驚いた。注して挙げる根拠は『史記』の「孔子世家」である。それはさておき、甲骨文の語法が周以後の古代漢語と異なり、完全な順行構造であることについてはまったく言及がなく、個人的にはやや落胆する結果とはなった。

(京都大学学術出版会 2014年4月)

孫文の「天下為公」

2014年07月22日 | 東洋史
 2013年07月17日「孫文 「対駐広州湘軍的演説」」より続き。

 孫文は「天下為公」の本当の意味を理解していたのだろうか。この語の出典である『礼記』の本文を読めたのかという意味においてである。
 彼は12才でハワイに渡ってそこで英語による教育を受けたから、伝統的な中国の知識人としての教養はあまり持っていない。読んだにしても英語でではないか。
 ちなみに、『礼記』は、James Leggeが、1885年に英語に翻訳している("Book of Rituals")。
 「天下為公」のくだりは"a public and common spirit ruled all under the sky"と訳されている。違うだろ。「天下為公」とは、「君主の地位を特定の血筋が私して占有しないこと」である。レッグの英訳は流暢である。それは文脈としてなだらかということであり、文脈からして異なっていることでもある。文脈からして異なるということは、レッグが、少なくとも『礼記』に関しては、テキスト(古代漢語)を正確に読めていなかったことを意味する。
 そのことはしばし措くとしても、もしこの推測が正しければ、孫文は「公」を"public and common"と理解したことになるわけである。これは大変な間違いだ。

Christian Wolff, "The Real Happiness of a People Under a Philosophical King"

2014年07月22日 | 西洋史
 2014年07月10日「井川義次 『宋学の西遷 近代啓蒙への道』」より続き。
 ウィキペディアの著者の項(「クリスティアン・ヴォルフ」)に、「ライプニッツ流の退屈でもったいぶった文体をドイツの学界に広めた」とある(“業績”条)。
 私にはドイツ語の原文はわからないが、読んだ英訳からは、かなり「もったいぶった」文体であるとは感じた。退屈かどうかは知らない。
 浅いとは思った。なぜならここで紹介され賛美される中国は、伏羲も神農も堯も舜も孔子も、おのれの哲人政治論を説くうえで恰好の(と本人が考えた)例、もしくはダシ、にすぎないからだ。自身の哲学における諸概念や議論の必要要素に見立ててそれらを当てはめているだけである。単なる記号だ。

(London: M. Cooper, 1750)

氣賀澤保規 「東アジアにおける『日本』の始まり」

2014年07月16日 | 日本史
 副題「近年発見の百済人『袮軍墓誌』の理解をめぐって」
 『白山史学』50、2014年5月、1-22頁。

 中国西安で見つかった678年作成の同墓誌(袮軍は同年に死去、葬られた百済人の名前)には、「日本」の名が記されていた。この年は、普通日本の国号を定めたといわれる大宝律令(701年制定)より遥かに早く、あるいは別に唱えられる飛鳥浄御原令の681年よりもまだ早い。その結果として、筆者は、663年白村江の戦いからほど遠からぬある時期に、天智天皇がこの国号を定めた可能性を示唆する。

宮脇淳子 「祁韻士纂修『欽定外藩蒙古囘部王公表傳』考」

2014年07月13日 | 東洋史
 『東方學』81、1991年1月、102-115頁。

 『欽定外藩蒙古囘部王公表傳』は、現在もなお十六―十八世紀北アジア研究の一等史料である。本書は、漢人の著作に成るにも拘らず、「水草を逐うて遷徙す」と言うが如き、中國文明に於て北方の戎狄を敍する舊來の套語を用いる風はない。帝國の主人たる滿洲人の點から觀察した、その同盟者モンゴル人の事蹟を、そのまま正確に記したものが本書である。モンゴル人民共和国の人々が、本書が最初モンゴル語で書かれたと信じて疑わないのは、本書がモンゴル人の立場を忠實に反映しているが故である。 (「三 結語」 同誌112頁)

 内容と、そして文体とに、非常に興味がある。

井川義次 『宋学の西遷 近代啓蒙への道』

2014年07月10日 | 西洋史
 すべては美しき誤解だったということか。就中ヴォルフの、中国ではライプニッツ以前に充足理由律が認識されていたという主張など、噴飯物でさえある。彼はそこに己が見たいものを見ただけだったのだ。そして彼が依拠したノエルとクプレによる中国古典のラテン語訳と解説もまたあまり正確ではなかった。

(人文書院 2009年12月)

広瀬淡窓の「天理」、大村益次郎の「天理」

2014年07月10日 | 日本史
 2014年6月27日内田伸編『大村益次郎史料』より続き。

 広瀬淡窓は、「天理」を、「夫婦の配、父子の親、兄弟の序」そして「君臣の分」と説明している(『義府』「第三十一則」)。広瀬の儒学には荻生徂徠の影響が大きいが、その徂徠は朱子学の「理」概念を否定して「道」あるのみと唱え、その「道」とは具体的には経典に書いてある内容だとした。
 「道」とは「天地自然の道には非ざる」「天下を治むるの経緯条理」(徂徠自身の言葉)である。それはつまり、「『礼楽刑政』という外的な規範の総体」(菅本大二「荻生徂徠の『読荀子』と「礼」」における表現)に外ならない。広瀬の言う天理もこの意味に近そうである。
 ならばその広瀬に教えを受けた大村の、「世上の論は乱を好み天理に背き、畢竟浮浪生国を壱つも持ぬ者の論にして、民の父母たる者の論あらざる事」の「天理」もまたそうであろうか? 外的な規範、平たく言えば「人の道」、というくらいの。

比嘉実 「琉球王統譜・神号の思想史的研究 禅譲論受容の背景」

2014年07月10日 | 地域研究
 『沖縄文化研究』16、1990年3月、151-183頁。

 第二尚氏王朝尚豊王(在位1621-1640)のあと、号(即位後に持つ国内における琉球語による呼び名)が琉球王に付されなくなるのは、薩摩の琉球征服以後、日本(=当時の幕藩体制)的価値尺度に合わせた改革を余儀なくされたことがその原因であろうという説。