書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

孫文の「天下為公」

2014年07月22日 | 東洋史
 2013年07月17日「孫文 「対駐広州湘軍的演説」」より続き。

 孫文は「天下為公」の本当の意味を理解していたのだろうか。この語の出典である『礼記』の本文を読めたのかという意味においてである。
 彼は12才でハワイに渡ってそこで英語による教育を受けたから、伝統的な中国の知識人としての教養はあまり持っていない。読んだにしても英語でではないか。
 ちなみに、『礼記』は、James Leggeが、1885年に英語に翻訳している("Book of Rituals")。
 「天下為公」のくだりは"a public and common spirit ruled all under the sky"と訳されている。違うだろ。「天下為公」とは、「君主の地位を特定の血筋が私して占有しないこと」である。レッグの英訳は流暢である。それは文脈としてなだらかということであり、文脈からして異なっていることでもある。文脈からして異なるということは、レッグが、少なくとも『礼記』に関しては、テキスト(古代漢語)を正確に読めていなかったことを意味する。
 そのことはしばし措くとしても、もしこの推測が正しければ、孫文は「公」を"public and common"と理解したことになるわけである。これは大変な間違いだ。

Christian Wolff, "The Real Happiness of a People Under a Philosophical King"

2014年07月22日 | 西洋史
 2014年07月10日「井川義次 『宋学の西遷 近代啓蒙への道』」より続き。
 ウィキペディアの著者の項(「クリスティアン・ヴォルフ」)に、「ライプニッツ流の退屈でもったいぶった文体をドイツの学界に広めた」とある(“業績”条)。
 私にはドイツ語の原文はわからないが、読んだ英訳からは、かなり「もったいぶった」文体であるとは感じた。退屈かどうかは知らない。
 浅いとは思った。なぜならここで紹介され賛美される中国は、伏羲も神農も堯も舜も孔子も、おのれの哲人政治論を説くうえで恰好の(と本人が考えた)例、もしくはダシ、にすぎないからだ。自身の哲学における諸概念や議論の必要要素に見立ててそれらを当てはめているだけである。単なる記号だ。

(London: M. Cooper, 1750)