副題「ラサ一番乗りをめざして」。
ニコライ・プルジェワルスキー率いるロシア探検隊は、1878年の第一回チベット遠征で、あと240キロでラサという地点まで到達しながら、チベット政府の官吏に行く手を阻まれ、来た道をそのまま引き返すよう命じられた。
この本では、その際のこととして、「近年、イタリアの中国研究者によって発見された、この時代のチベット側の文書によれば」と前置きの上で、ロシア側が「我々は西洋人ではない。偉大なる白人君主(原注・ロシア皇帝のモンゴルでの呼称)の民である」と言って抗議したと書かれている。
この「白人君主」とは多分、英語の原文では"
White Tsar"となっているのだろうと思われる。イヴァン三世以来、「第三のローマ」の皇帝(ツァーリ)として、紫のローブを着たローマ皇帝、赤いローブのビザンツ皇帝とみずからとを区別するためにロシア皇帝は白いローブを身につけた、そのために「白いツァーリ」と呼ばれるようになったというのだが、しかし当時のチベット人がそんな由来など知るはずもないし、言っても何の効果もなかったにちがいない。
だからやはりこれは、モンゴルでそう呼ばれているというのであるのなら、素直に
チャガン・ハーンを意味していると見るべきではないか。チベット語でどう書いてあるのかは知らないが。
ロシアの「ツァーリ」は「カエサル」よりも「ハーン」である。プルジェワルスキーよりも時代はさかのぼるが、17世紀(中国では明末清初)のロシア語は、清皇帝をボグド・ハーン(богдохан/богдыхан)のほか、ボグド・ツァーリ(
богдойский царь)とも呼んでいた。政府公式文書の用語であるし、清朝は存続していた。おそらくプルジェワルスキーの当時も事情は変わっていなかっただろう。
チャガン・ハーンの国ならたしかに西洋の国ではないし、その民は西洋人ではなかろう。モンゴル(ユーラシア)の国であり民である。
(白水社 2004年4月)