書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

稲垣武 『昭和20年8月20日 内蒙古・邦人四万奇跡の脱出』

2009年08月26日 | 思考の断片
 本筋とは全然関係ないが、イリヤ・エレンブルグが、第二次世界戦中に「殺せ、殺せ、ドイツ民族は悪そのものだ。」ではじまるアジ文章を、ソ連兵士むけの政治パンフレットで発表しているということを知った(本書223-224頁)。著者によれば、「暴力で、ドイツ女の民族的誇りを叩きつぶせ」とか「諸君は怒濤のように進撃するとともに、殺せ、殺せ、勇敢なる赤軍兵士よ」といったその内容のひどさに、さすがにソ連内部からも非難の声があがったが、本書によれば彼はその後も「スターリンの黙認の下に、『ドイツ人を殺せ』というアピールをくり返し」たという。
 調べてみると、この“政治パンフレット”とは、いまも続くソ連・ロシア軍の新聞『赤い星』であり、発表年月日は1942年7月24日、文章の原題は、ずばり「殺せ!(УБЕЙ!)」だった。稲垣氏が引用した部分は原文においては大体最終段落()がそれに相当する。「ドイツ人を殺せ!(Убей немца!)」のフレーズが繰り返されるところ、たしかにすさまじい。だが「ドイツ人は人間ではない」とか「ドイツ人を生かしておけば、奴らはロシア人の男を吊るし、ロシア人の女を強姦するだろう」とかと、書かれてはいるものの、「暴力で、ドイツ女の民族的誇りを叩きつぶせ」に当たる部分は、そこには見いだせない。



  Мы знаем все. Мы помним все. Мы поняли: немцы не люди. Отныне слово "немец" для нас самое страшное проклятье. Отныне слово "немец" разряжает ружье. Не будем говорить. Не будем возмущаться. Будем убивать. Если ты не убил за день хотя бы одного немца. твой день пропал. Если ты думаешь, что за тебя немца убьет твой сосед, ты не понял угрозы. Если ты не убьешь немца, немец убьет тебя. Он возьмет твоих и будет мучить их в своей окаянной Германии. Если ты не можешь убить немца пулей, убей немца штыком. Если на твоем участке затишье, если ты ждешь боя, убей немца до боя. Если ты оставишь немца жить, немец повесит русского человека и опозорит русскую женщину. Если ты убил одного немца, убей другого - нет для нас ничего веселее немецких трупов. Не считай дней. Не считай верст. Считай одно: убитых тобою немцев. Убей немца! - это просит старуха-мать. Убей немца! - это молит тебя дитя. Убей немца! - это кричит родная земля. Не промахнись. Не пропусти. Убей!

(PHP研究所 1981年8月第1刷 1981年9月第2刷)

訂正:チベットにも行っていた

2009年08月26日 | 思考の断片
▲「中華人民共和国中央人民政府門戸網站」2009年08月25日、「刘延东在西藏调研强调加快教育科技文化事业发展」 (部分)
 〈http://www.gov.cn/ldhd/2009-08/25/content_1400753.htm

  新华社拉萨8月25日电中共中央政治局委员、国务委员刘延东近日在西藏调研时强调,要认真贯彻落实党的教育、科技、文化工作方针和民族政策,切实办好民族地区教育,大力保护、传承和弘扬优秀民族文化,为促进西藏经济社会又好又快发展提供人才保障、科技支撑和文化助力。

 劉延東が行っていた。 新疆の胡錦濤、内モンゴルの習近平にくらべてどうしてちょっと格下なのだろう。本来ならやはり李克強が来るべきところではないのか。

▲「百灵网 」2009-08-26 08:27:00、 「胡锦涛7 5事件后首赴新疆视察 哀悼遇难群众」 (部分)
 〈http://news.beelink.com.cn/20090826/2692228.shtml

  新疆维吾尔自治区干部大会25日上午在乌鲁木齐召开。胡锦涛在会上指出,做好新疆工作关键是要处理好发展和稳定的关系,始终坚持一手抓改革发展,一手抓团结稳定,自觉做到“三个不动摇”。一是要坚持以经济建设为中心不动摇。二是要坚持维护社会大局稳定不动摇。三是要坚持各民族共同团结奋斗、共同繁荣发展不动摇。
  胡锦涛强调,支持少数民族和民族地区加快发展是中央的一项基本方针,也是推进西部大开发的首要任务。做好新疆工作决不仅仅是新疆的事情,而是整个国家的事情。实践证明,中央支持新疆加快发展的政策措施是有力有效的,不仅要继续贯彻落实,而且要不断加大力度。
  与此同时,22日至25日,中共中央政治局常委、中央书记处书记、国家副主席习近平在内蒙古自治区调研,对改革开放以来特别是近些年来内蒙古经济社会发展和民族团结进步取得的显着成绩给予充分肯定。中共中央政治局常委、国务院副总理李克强23日至25日在青海考察时,着重就西部地区经济发展和西部大开发情况进行调研。
  此外,内蒙古、新疆、广西、宁夏、西藏自治区成就展25日在北京开幕。中共中央政治局委员、国务院副总理回良玉和中共中央政治局委员、中央书记处书记、中宣部部长刘云山出席开幕式。
  中共中央政治局委员、国务委员刘延东近日则在西藏调研,强调加快民族地区教育科技和文化事业发展。

青海の向こう

2009年08月26日 | 思考の断片
▲「新華網」2009年08月25日 20:43:40、「李克强:深入实施西部大开发战略 促进区域经济社会协调发展 」 (部分)
 〈http://news.xinhuanet.com/politics/2009-08/25/content_11943018.htm

  新华网西宁8月25日电(记者谢登科)中共中央政治局常委、国务院副总理李克强近日在青海考察时强调,要认真贯彻落实党中央、国务院的决策部署,抓住保长扩内需、深入推进西部大开发的机遇,发挥特色优势,调整经济结构,促进社会和谐,造福各族人民群众。
  初秋的青海高原,巍巍群山安宁祥和,茫茫草原绿色葱茏。23日至25日,李克强先后来到西宁市、海西蒙古族藏族自治州和海东地区,深入企业车间,走进田间地头和农户家庭,着重就西部地区经济发展和西部大开发情况进行调研。

 青海省の向こうはチベット自治区である。というより青海省自体、昔のアムド地方でいにしえのチベットの一部だが、どうして向こう側へ行かなかったのかしらん。

内モンゴル自治区は中国少数民族政策のショーケースである

2009年08月26日 | 思考の断片
▲「新華網」2009年08月25日 19:10:29、「胡锦涛在新疆维吾尔自治区干部大会上发表重要讲话」 (部分)
 〈http://news.xinhuanet.com/politics/2009-08/25/content_11942627.htm

  新华网乌鲁木齐8月25日电(记者孙承斌 邹声文)新疆维吾尔自治区干部大会25日上午在乌鲁木齐召开。正在新疆考察工作的中共中央总书记、国家主席、中央军委主席胡锦涛出席大会并发表重要讲话。他强调,要深刻认识新中国成立以来特别是改革开放以来新疆发生的沧桑巨变,倍加珍惜来之不易的大好局面,紧紧抓住国家深入实施西部大开发战略的宝贵机遇,坚持一手抓改革发展一手抓团结稳定,努力在中国特色社会主义道路上创造新疆更加美好的明天。

▲「新華網」2009年08月25日 21:23:20、「习近平:切实加强和改进党的建设 大力推动民族地区繁荣稳定」 (部分)
 〈http://news.xinhuanet.com/politics/2009-08/25/content_11943157.htm

  新华网呼和浩特8月25日电(记者李亚杰)中共中央政治局常委、中央书记处书记、国家副主席习近平近日在内蒙古自治区调研时强调,促进经济繁荣发展,维护社会和谐稳定,根本在于加强和改进党的建设。要坚持以学习实践科学发展观活动为契机,努力提高党的各方面建设工作水平,为民族地区改革发展各项事业提供坚强保证。

 N0.1 は新疆へ、N0.2 はモンゴルへ。新疆では臨床処置、モンゴルではモンゴルを実例として賞賛しつつ国家の民族政策の基礎を内外に確認。清朝時代とは違った意味で、中国の三大少数民族自治区には、やはりモンゴル―新疆/チベットの序列があるようだ。モンゴルは成功したモデルケース、新疆・チベットはそれに倣うべき存在。
 中華人民共和国の少数民族政策は、清代の藩部=間接統治=高度の自治から、民族自治区=区域自治=実質的な直接統治へと切り替わった。昨日の曽紀沢の言葉を借りれば、“藩部”を“属地”に変えた。だが問題は、中国政府(およびその指導者の大多数を占める漢人)の主観はさておき、客観的には無神経そのものの漢化(同化)政策を取ったところにある。もともと漢人の人口率が多く内地からも近くてモンゴル人の漢化および両者間の融合が進んでいた内モンゴルでは、中央の少数民族政策は比較的スムーズに行われたが、いわゆる中原地域から地理的に遠く離れ、少数民族の人口率も高く、文化の独自性・独立性が強力な新疆とチベットでは、強烈な反発をまねいた。漢人の指導者たちには――なかには例外もいるのだろうが――、その反発の理由がどうしてもわからないらしい。何かあると弾圧ばかりするのがその証拠である。自分がいつも正しいと思っているからである。最大の問題は、自分たちのやっていることが他民族や異文化への侵略であり抑圧であることすらわかっていないらしいことだ。いいかげん自分の上から目線に気が付け。

宮脇淳子 『世界史のなかの満洲帝国』 から

2009年08月25日 | 抜き書き
 清朝は新疆平定に功のあった左宗棠の意見を入れ、一八八四年に新疆省を設置し、漢人に行政を担当させた。これが藩部自治の原則を破る清帝国の変質のはじまりだった。清朝は建国以来、モンゴル人と連合して中国を統治し、チベット人とイスラム教徒を保護する建前だったが、これから連合の相手を漢人に替え、「満漢一家」といいだす。こうして清帝国は国民国家化に踏み出したのであるが、その結果、満洲人に裏切られたと考えたモンゴル人とチベット人の離反をまねくことになったのである。 (「第六章 日本の大陸進出――日清・日露戦争」 本書121-122頁)

(PHP研究所 2006年3月)

平野聡 『清帝国とチベット問題 多民族統合の成立と瓦解』

2009年08月25日 | 東洋史
 19世紀半ばからいわゆる列強の侵略に苦しむ清朝は、最終的には近代国際法上の領土の概念に沿って、属国(朝貢国)を外国として切り離し、藩部を自国領土として維持することに決した、その線引きはいつ行われたか。
 このことに関しては、この書で別の目的で紹介されている曽紀沢(曽国藩の子)による1885年の上奏が手がかりになる。曽紀沢は駐英公使・駐仏公使を経験した外交官であり、その近代的な外交の知識と経験とを買われてのちには駐露公使をも兼任し、新疆のイリ地方を軍事占領したロシアとの再交渉にあたってイリ条約(1881年)をまとめあげ、前任者が一度はすべて放棄した同地方の一部奪還に成功した業績のもちぬしだった。中国における近代的外交官の草分けともいうべき存在である。

 西洋の各大国は、最近もっぱら中華の属国の侵奪に従事しており、彼らの口実は「中国の属国への対応は、その国内政治には不問で、しかも外交についても不問であるとしている以上、結局真の属国ではない」というものである。しかし、チベットとモンゴルは中国の属地であり、属国ではない。もっとも、我(清)がチベットを管轄するのは、西洋の属国管理に比べれば寛であるものの、そのために西洋はチベットを単に中華の属国とのみ称し、内地の省とは違った存在として見ている。もし我がいま大権を総覧して天下に明示しなければ、将来は属地がいよいよ属国と称され、その結果「属国は真の属国ではない」と見なされて侵奪される虞がある。 (「第五章 英国認識とチベット認識のあいだ 同書250頁」)

 著者によれば、上奏中の藩部を「属地」(西洋的な意味での領域)とする定義は曽紀沢の独創にかかるものだという。この上奏をみるかぎり、曽紀沢は「その国内政治には不問で、しかも外交についても不問であるとしている以上、結局真の属国ではない」という西洋諸国の主張()を認めているようである。彼は、伝統中国の「属国」のあり方は西洋の近代国際法の尺度からすれば「従属国」とは到底見なしがたいことを理解していたと思われる。だから彼はそれについては争わない。そのかわり、藩部の確保に集中する。彼は藩部を「属地」として捉え直し、それにふさわしく再編成することを提言した。

 ・筆者注によれば、上奏中のこのくだりは江華島事件の際の森有礼の李鴻章・恭親王に対する発言をふまえたものらしい。

 曽紀沢のこの提言の契機となったのは、平野氏の解釈によれば、いまロシアの沿海州およびイリ地方の占領、そしてイギリスのチベットへの侵入(もっとも曽紀沢自身は最終的にはイギリスは通商が目的で侵略ではないと判断したらしいが)、そして日本の台湾出兵(1874年)および第二次琉球処分(1879年)そして江華島事件・日朝修好条規締結以降の(1875-1876年)朝鮮への進出である。

 上のくだりでは新疆についてふれるところがない。引用された以外の部分で論じられているのかもしれないが、イリ条約の交渉担当者で、前任者の崇厚がいったんは放棄したイリ地方を奮闘して部分的にせよ取り戻してから両国間の国境線を画定するところへまで漕ぎつけた曽紀沢は、もちろん新疆を清朝の領土であると認識していたであろう。これは、上奏の前年(1884年)に新疆省が設置されていたからだと思われる。藩部からすでに内地の一省へと変わった新疆はすでに確実な「属地」であると判断されたのではないか。

 彼は、イリ条約交渉においては、左宗棠が1877年にヤークーブ・ベクの乱を鎮圧して新疆地方を清朝の支配下に取り戻したあとの、反乱を支援してイリ地方に入り込み乱の収束後もそのままその地を占拠し続けているロシアを何とかするという、いわば左宗棠の後始末にかり出されたわけであるが、その左宗棠は、乱の当初、ヤークーブ・ベク独立政権鎮圧に消極的意見が優勢で、同地に緩衝国を作ることをもくろむロシアとイギリスの後押しを見越して新疆放棄すら唱えられる清政府のなかで、鎮圧と新疆維持を主張した人物である(ちなみに乱の閉廷後新疆省の設置を主張したのも彼である)。彼はこう主張した。

 「新疆を取り返せなければ、モンゴルをつなぎとめられない。モンゴルをつなぎとめられなければ、清朝はおしまいだ」 (宮脇淳子『世界史のなかの満洲帝国』、PHP研究所、2006年3月、121頁から)

 新疆を失えばモンゴルを失う、モンゴルを失えば清朝はおしまいだ、という主張の意味するところはまた別に考えるとして、ここからは、左宗棠が、新疆とモンゴルという清朝の三大藩部のふたつを、相互に密接に関係した存在――そしてモンゴルのほうが新疆よりも清朝から見た重要性において上位にある――として捉えていることが、明らかにわかる。
 では、いま三大藩部の残るひとつ、チベットの位置づけはどうだったのか。それについては、冒頭の曽紀沢の上奏が、在る程度、答えとなりうるかもしれない。「チベットとモンゴルは属地であり、属国ではない」。しかし「我(清)がチベットを管轄するのは、西洋の属国管理に比べれば寛である」がために、「西洋はチベットを単に中華の属国とのみ称し、内地の省とは違った存在として見ている」。「もし我がいま大権を総覧して天下に明示しなければ、将来は属地がいよいよ属国と称され、その結果『属国は真の属国ではない』と見なされて侵奪される虞がある」。だから、チベットの属地化を進めよということだが、「もし我がいま大権を総覧して天下に明示しなければ、将来はいよいよ属国と称されてその結果『属国は真の属国ではない』と見なされて侵奪される虞がある」の条、この「属地」は、新疆を除き、チベットでもないとすれば、その意味するところは当然モンゴルでしかない。つまりチベットは、新疆が内地となって藩部がふたつとなった当時、もう一つの藩部――モンゴル――を保全するうえでのテストケースとして捉えられているのである。やはりモンゴルのほうが、チベットよりも重要な存在として見なされている。
 つまり、(すくなくともこの時期の)清朝には、三大藩部のなかで、モンゴルが上位でチベット・新疆は下位という格付けがなされていたことになる。

 清朝は建国以来、モンゴル人と連合して中国を統治し、チベット人とイスラム教徒を保護する建前だった〔略〕。  (宮脇淳子『世界史のなかの満洲帝国』、PHP研究所、2006年3月、121頁)

 というが、これもまたその「建前」の具体的な一例だろうか。

(名古屋大学出版会 2004年7月)

「‘White Tara’ Medvedev Pledges Cash」 から

2009年08月25日 | 抜き書き
▲「The Moscow Times」25 August 2009, by Alexandra Odynova / The Moscow Times. (部分)
 〈http://www.moscowtimes.ru/article/600/42/381174.htm

 Russian Buddhists revere Dmitry Medvedev as a deity, and the president seemed to live up to their expectations.

 “The leader of this country is a man who bears a very serious responsibility for others,” Ayusheyev 〔Damba Ayusheyev, Russia’s Buddhist leader〕said. “The Buddhists must support him, identifying him as a deity.”
 Nezavisimaya Gazeta reported Monday that the monks were planning to hold a special sacred ceremony for Medvedev that recognized him as the White Tara deity. The report said, citing monastery head Dagba Ochirov, a White Tara throne was constructed specially for Medvedev. It said details of the ceremony were secret.

 ロシア皇帝は White Tara (観世音菩薩)の生まれ変わりであるとは、ダライラマ十三世の側近だったブリャート・モンゴル人のアグワン・ドルジェフが、20世紀初めのチベット宮廷の内外においてすでに主張していたことである。だがWikipediaの英語版「Agvan Dorzhiev」によれば、これはドルジェフの独創ではなく、さらにはでたらめでもなく、18世紀、エカチェリーナ二世の時代からロシアのチベット仏教徒のあいだで唱えられていた説だという(同、"The 'White Tsars' as incarnations of White Tara.")。ブリャート共和国のチベット仏教ではロシアの統治者を宗教の守護者たる観世音菩薩の生まれ変わりとして崇める伝統があるのだろうか。だとすればドルジェフは、あるいはロシアの間諜ではあったかもしれないが、本人自身は巷間いわれるような怪僧などではなく、まじめな宗教者だったのかもしれない。

ピーター・ホップカーク著 今枝由郎/鈴木佐知子/武田真理子訳 『チベットの潜入者たち』

2009年08月22日 | 東洋史
 副題「ラサ一番乗りをめざして」。

 ニコライ・プルジェワルスキー率いるロシア探検隊は、1878年の第一回チベット遠征で、あと240キロでラサという地点まで到達しながら、チベット政府の官吏に行く手を阻まれ、来た道をそのまま引き返すよう命じられた。
 この本では、その際のこととして、「近年、イタリアの中国研究者によって発見された、この時代のチベット側の文書によれば」と前置きの上で、ロシア側が「我々は西洋人ではない。偉大なる白人君主(原注・ロシア皇帝のモンゴルでの呼称)の民である」と言って抗議したと書かれている。
 この「白人君主」とは多分、英語の原文では"White Tsar"となっているのだろうと思われる。イヴァン三世以来、「第三のローマ」の皇帝(ツァーリ)として、紫のローブを着たローマ皇帝、赤いローブのビザンツ皇帝とみずからとを区別するためにロシア皇帝は白いローブを身につけた、そのために「白いツァーリ」と呼ばれるようになったというのだが、しかし当時のチベット人がそんな由来など知るはずもないし、言っても何の効果もなかったにちがいない。
 だからやはりこれは、モンゴルでそう呼ばれているというのであるのなら、素直にチャガン・ハーンを意味していると見るべきではないか。チベット語でどう書いてあるのかは知らないが。
 ロシアの「ツァーリ」は「カエサル」よりも「ハーン」である。プルジェワルスキーよりも時代はさかのぼるが、17世紀(中国では明末清初)のロシア語は、清皇帝をボグド・ハーン(богдохан/богдыхан)のほか、ボグド・ツァーリ(богдойский царь)とも呼んでいた。政府公式文書の用語であるし、清朝は存続していた。おそらくプルジェワルスキーの当時も事情は変わっていなかっただろう。
 チャガン・ハーンの国ならたしかに西洋の国ではないし、その民は西洋人ではなかろう。モンゴル(ユーラシア)の国であり民である。

(白水社 2004年4月)

上田信 『伝統中国 〈盆地〉〈宗族〉にみる明清時代』 から ②

2009年08月18日 | 抜き書き
 2009年08月11日「加藤弘一『Literary Homepage ほら貝』 から」より続き。
 2009年04月29日「上田信 『伝統中国 〈盆地〉〈宗族〉にみる明清時代』 から」の補足。

 漢族が何回も分枝を繰り返して分裂したとしても、分かれたもの同士が同質であり続けると感じ取れる理由は、漢族が「親」と「子」のあいだになにか共通のものが流れている、と感じるからである。この「なにか共通のもの」を、古代の漢族の知識人たちは〈気〉と名づけた。漢族は心臓のなかに、一本の〈気〉の流れを感じ続けている。〈気〉とはなにか説明することはむずかしい。なぜなら漢族の発想の根底にある感覚なのであり、これ以上は因数分解できない素数のような言葉であるからである。漢族が〈気〉の思想を生み出したと考えるべきものではなく、〈気〉の発想が生まれたときに漢族が成立したと考えるべきであろう。〔略〕〈気〉とは宇宙を活動させている「活力」であり、天地・物質・人間などのすべてを貫いて流れ、時間・空間をまとめ上げている「秩序」を形成する。比喩的にのべれば、電気がさまざまな現象を生じさせ、電気が流れるところに磁場を作るようなものである。 (「第二章 親子関係は宗族(リニージ)をどう生み出すか」 本書93-94頁)

 漢族は〈気〉が骨を媒介にして「親」から「子」へと流れると感じている。そして、骨は父親から、肉は母親から引き継がれるのだと信じている。ムスコは父親から引き継いだ〈気〉を自分の子に受け継がせることができるが、ムスメは彼女が産んだ子に〈気〉を伝えることはできない。女性は〈気〉の流れに対して、つねに受動的な立場に置かれる。ムスコが何人かいた場合、それぞれのムスコが父親から受け継いだ〈気〉は、完全に同質なものである。この父親から子への〈気〉の流れが形成する磁場が〈家族〉である。 (「第二章 親子関係は宗族(リニージ)をどう生み出すか」 本書94頁)

 父親から子へと流れる〈気〉を過去にたどることで、漢族に特有な親族関係が形成される。〔略〕二人以上の人間が、みずからの身体に流れている〈気〉の共通の来源として認識した過去の人物のことを、漢族は〈祖〉とよぶ。すでにこの世に存在しない〈祖〉から〈子孫〉へと向かう〈気〉の流れが形成した磁場は〈宗族〉とよばれ、この磁場のなかに形成された秩序は〈宗法〉とよばれる。  (「第二章 親子関係は宗族(リニージ)をどう生み出すか」 本書94頁)

 宗族(一族)とは、血のつながりではなく、骨、気のつながりということである。気が凝って骨となる。ここでは血は――しかも父方の血のみだが――、せいぜい、骨となる気の運び手にすぎないらしい。
 宗法について、別に「〈気)の摂理である」(94頁)という説明もなされているが、「〈気)の流れが形成した磁場」よりも、こちらのほうが解りやすい。そもそも気を電気にたとえるのは適切かどうか。気は万物の構成要素(つまり元素)であるとも説明されるのだから、たんなる「活力」ではあるまい。

(講談社 1995年1月)