書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

加藤弘一「Literary Homepage ほら貝」 から

2009年08月11日 | 抜き書き
 「エディトリアル」(June 2004)。
 〈http://www.horagai.com/www/salon/edit/ed2004f.htm

 それにしても、「血」は「気」ではない。先に述べたように、中国社会は父系の宗族集団によって構成されており、父系で継承される生命の連続を「気」と呼んでいる。時代を通じて民衆の生活に浸透していった族譜に「一祖分派。同気連枝」、「世数雖遠。皆一気也」という句がしばしば見られるように、これはもはや自然哲学というようなものではなく、感情生活に深く根をおろした土俗的な思考と化しているといっていい。後に見るように、朱熹の合理的で精緻な体系といえども、そうした土俗的な思考とけっして無縁ではないが、注意しておきたいのは「気」が父系でしか継承されないという点だ。儒教本来の考え方からいえば、自己の生命とは父系の生命の継承であり、自己像とは父親像のみをひな型に築かれるはずのものなのだ。これに対して、日本語の「血」では母系でも生命が継承され(だから、母系親族を養子にとることも普通におこなわれている)、自己像のひな型も複数でありうる。 (Jun26 項、もと同氏著『石川淳 コスモスの知慧』筑摩書房、1994年2月。太字は引用者)

袖井林二郎 『拝啓マッカーサー元帥様 占領下の日本人の手紙』

2009年08月11日 | 日本史
 もと大月書店、1985年8月刊。
 いろいろな人がいて、いろいろな考え方があるのは、国籍や文化や民族や人種にかかわらず人間社会においては当然であり、敗戦という異常な環境下では、そのありようがいっそう際だってくるとしてもまた当然だろう。ここから日本人に関して何らかの一般的な結論を引き出すのは少々むりではないかという感想。
 マッカーサーへ手紙を書いた人間よりも(手紙は約50万通あるそうだが)、はるかに多くの数の日本人(当時の総人口8,000万人)が、手紙など書かなかった。さらにいえば、投書マニアを一般人と見なしてよいのかという疑問も残る。

(岩波書店版 2002年6月)