2009年08月18日「上田信 『伝統中国 〈盆地〉〈宗族〉にみる明清時代』 から ②」から続き。
要するに、同姓不婚と異性不養とは、同一の根本思想から生ずる帰結であり、あたかも表と裏とのように密接に結び合った事柄である。その根本思想とは、〔略〕人の血すじは父からむすこへと伝わるものであり、これを幾世代繰返しても、血すじの同一性を失わないという考え方、しかもかような血すじこそ生命の本源ないし生命自体であり、各人の本性はこれによって規定せられると見る見方である。かような意味の血すじを中国語では「血」というよりもむしろ「気」という言葉で表現する。「父子は至親なり、形を分けて気を同じうす(父子至親、分形同気)」〔原注。『通典』巻167〕といわれるように、父と子は現象的には二つの個体であるけれども(分形)、両者のうちに生きる生命そのものは同一である(同気)、すなわち子は父の生命の延長にほかならないと観念せられるのである。「父子は一気なり、子は父の身を分けて身と為す(父子一気、子分父之身為身)」〔原注。黄宗羲『明夷待訪録』「原臣」〕といい、「三世(原注。祖・父・子)と云うと雖も、これを合して一体、分ある者に非ざるなり(雖云三世、合之一体、非有分者也)」〔原注。『通典』巻167〕という場合の「一気」「一体」の語も同じ思想の表現である〔原注。「骨」の字も「気」と同じような意味に用いられる〕。己のうちに親の生命の延長を認め、親のうちに己の生命の本源を認め、かくて両者を分けへだてなき一つの生命の連続と認めることは、中国人の人生観の基本ともいうべきものであったのであり、古来倫理体系の核心をなす至高の徳目とされて来た「孝」という概念も、もとをただせば右のような認識から出発するものであり、この認識を常に新たにしかつそれにふさわしく行為することを要求するものに外ならない。 (「第一章 基本的諸概念 第一節 親族について」 本書35頁。太字は引用者)
何事も先達はあらまほしきものなり。
(創文社 1967年3月)
要するに、同姓不婚と異性不養とは、同一の根本思想から生ずる帰結であり、あたかも表と裏とのように密接に結び合った事柄である。その根本思想とは、〔略〕人の血すじは父からむすこへと伝わるものであり、これを幾世代繰返しても、血すじの同一性を失わないという考え方、しかもかような血すじこそ生命の本源ないし生命自体であり、各人の本性はこれによって規定せられると見る見方である。かような意味の血すじを中国語では「血」というよりもむしろ「気」という言葉で表現する。「父子は至親なり、形を分けて気を同じうす(父子至親、分形同気)」〔原注。『通典』巻167〕といわれるように、父と子は現象的には二つの個体であるけれども(分形)、両者のうちに生きる生命そのものは同一である(同気)、すなわち子は父の生命の延長にほかならないと観念せられるのである。「父子は一気なり、子は父の身を分けて身と為す(父子一気、子分父之身為身)」〔原注。黄宗羲『明夷待訪録』「原臣」〕といい、「三世(原注。祖・父・子)と云うと雖も、これを合して一体、分ある者に非ざるなり(雖云三世、合之一体、非有分者也)」〔原注。『通典』巻167〕という場合の「一気」「一体」の語も同じ思想の表現である〔原注。「骨」の字も「気」と同じような意味に用いられる〕。己のうちに親の生命の延長を認め、親のうちに己の生命の本源を認め、かくて両者を分けへだてなき一つの生命の連続と認めることは、中国人の人生観の基本ともいうべきものであったのであり、古来倫理体系の核心をなす至高の徳目とされて来た「孝」という概念も、もとをただせば右のような認識から出発するものであり、この認識を常に新たにしかつそれにふさわしく行為することを要求するものに外ならない。 (「第一章 基本的諸概念 第一節 親族について」 本書35頁。太字は引用者)
何事も先達はあらまほしきものなり。
(創文社 1967年3月)