『日本思想体系 2 聖徳太子集』(家永三郎/藤枝晃/早島鏡正/築島裕校注、岩波書店 1975年4月)収録、同書484-544頁。
北朝前半期の注釈書〔金谷注。仏典注釈書写本〕は、一つの章と一つの段粗くとかの大意をとることに重点があり、とくに難解な語句にだけ注解を加えるという行き方であったのに対して、北朝後半期になると、次第に注釈が細かになって、一つの大段落を幾つかの中段落に分け、それをさらに小段落、ないし小々段落にまで細分し、また文義の解釈についても、異派の説とか、微妙に違った解釈、ないし相矛盾する説までも並記するようになり、それと共に、原典の一句一句についての説明も加えられるようになる。これは、注釈は詳しいほど親切な注釈であり、異説を多く並べるほど、それは原文の理解に役立ち、同時に、異説を多く知るほど、それだけすぐれた学者であるとする考え方がそこにはあったと見受けられる。(486-487頁)
大づかみな注釈から細かな注釈への転回点は、どうやら五世紀の末あたりにあったものらしく、また異説包容主義が頂点に達するのは隋から唐初にかけての頃だったようである。 (487頁)
北朝前半期の注釈書〔金谷注。仏典注釈書写本〕は、一つの章と一つの段粗くとかの大意をとることに重点があり、とくに難解な語句にだけ注解を加えるという行き方であったのに対して、北朝後半期になると、次第に注釈が細かになって、一つの大段落を幾つかの中段落に分け、それをさらに小段落、ないし小々段落にまで細分し、また文義の解釈についても、異派の説とか、微妙に違った解釈、ないし相矛盾する説までも並記するようになり、それと共に、原典の一句一句についての説明も加えられるようになる。これは、注釈は詳しいほど親切な注釈であり、異説を多く並べるほど、それは原文の理解に役立ち、同時に、異説を多く知るほど、それだけすぐれた学者であるとする考え方がそこにはあったと見受けられる。(486-487頁)
大づかみな注釈から細かな注釈への転回点は、どうやら五世紀の末あたりにあったものらしく、また異説包容主義が頂点に達するのは隋から唐初にかけての頃だったようである。 (487頁)