書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

清の郭慶藩撰『莊子集釋』を読んで、テクスト自体の理解や内容に即した原典の・・・

2018年03月27日 | 思考の断片
 清の郭慶藩撰『莊子集釋』を読んで、テクスト自体の理解や内容に即した原典の体系的把握に資することに控えめに言っても必ずしも顧慮したものではない中世以前の注釈(近世以降もその弊は完全には免れてはいない)の通癖である所の、無意味な脱線と不要な饒舌(近代人の私には)から、望外の示唆を得た。

(しかし「コレはなにをなんのためになぜここで言っているのかわからない」ことが多いので疲れる。そう続けては読めない。そして原文を自分ひとりで読んで、ある仮説を思いついて検証してみたら、どうも外れたようだ。)

 ところで日本語でも漢語でも、まず注釈を見て、あるいは注釈を主として、本文を読むのと、専ら本文を追い、解釈に迷ったときや理解の仕方に疑問の存するときにはじめて注を見て参考にするというのは、読解にまるで違う世界が広がることを実感する。

 手元にある斯界の御大お二方による『荘子』注釈の「斉物論」篇を繙く。寛厳の差異はあるが、御両所とも、読解ののちその解釈に合わせた訓読を施して居られる。お一方など、一般向けという書の性質もあってか(両方とも文庫でそうだが)、従来の決まりきった訓読の型(定型の訓)を離れて、御自身の解釈にあわせて、また読み手の理解の便にこたえて、日本語古文の和語語彙のなかから自由に選んで読みを付けておられる。私などが僭越であるが、流石であるとしか言いようがない。

 これは宮崎市定御大が専門の論考などでもときに使用される方法で、訓読は己の原文解釈を別の言語へと移し替える作業、すなわち翻訳の一種であることを考えれば、あたりまえの行いなのだが、いつかこれを訓読としては邪道であるけしからんと批判される別の偉い先生(と言われている方)のご意見を聞いて、語学屋兼翻訳者としては腰を抜かしそうになったことがあった。若気の至りである。

 というわけで、御両所の訓読を拝読して、私の訓読とは異なる、つまり私とは解釈が異なるということが判った。漢語とは異なり日本語は詞だけでなく辞も残らず表現されるから、訓読が解釈に近づけば近づくほど個々の違いが鮮明になるということは言えると思う。