『六諭衍義』が本国中国において如何なる目的と経緯をもって生み出されたか、そしてそれがいかなる経緯をたどって日本へ伝えられ、翻訳され、日本の文化状況に影響を与えたかの研究。ウィキペディア同項にも書かれているように、日本へは、沖縄を通じて伝えられた。
この書に依れば、王朝時代の琉球においては、久米村(唐栄)の中国系子弟に対する中国語(官話)教科書として用いられたという。そもそも持ち帰った程順則自身、この久米村の出身者であった。琉球の対中国外交(冊封および進貢)は、久米村のいわゆる三十六姓が担っていた。
一部の六諭衍義が支那に対する官話練習の教科書となり同時に又日本に対する尺牘〔引用者注・書簡や文書のこと〕練習の教科書となつたと云ふ事は琉球の両属政策の上から見て興味ある問題である。 (「種類篇」本書48-49頁)
久米村での官話練習に『六諭衍義』を使うことを提議したのはこれも三十六姓の子孫である蔡温であった。彼はのちに琉球朝廷の宰相である三司になる政治家であるが、その出自故に嘗ては自らも通事を努めていたこともあって、当時の久米村における中国語使用の衰えとその結果としての中国語能力の低下をよく知悉しており、それを憂いていたらしい。彼は晩年に著した自叙伝(『獨物語』)で、彼は当時の久米村人は日常和文(琉球語)ばかり使っていたと嘆いている。彼は程順則の持ち帰った『六諭衍義』をみて、想像をたくましくすれば、「これだ!」とでも思ったのであろう。
蔡温の献策と努力の結果、久米三十六姓の中国語言語水準は改善を見たらしい。その証拠とまではいかないが、東恩納氏は、それまで和文であった幕府への国書が、これ以後漢文(古典漢語)を使うようになった事実を指摘している。このことから当時の情況の一半が窺えるように思える。
(国民教育社 1932年11月)
この書に依れば、王朝時代の琉球においては、久米村(唐栄)の中国系子弟に対する中国語(官話)教科書として用いられたという。そもそも持ち帰った程順則自身、この久米村の出身者であった。琉球の対中国外交(冊封および進貢)は、久米村のいわゆる三十六姓が担っていた。
一部の六諭衍義が支那に対する官話練習の教科書となり同時に又日本に対する尺牘〔引用者注・書簡や文書のこと〕練習の教科書となつたと云ふ事は琉球の両属政策の上から見て興味ある問題である。 (「種類篇」本書48-49頁)
久米村での官話練習に『六諭衍義』を使うことを提議したのはこれも三十六姓の子孫である蔡温であった。彼はのちに琉球朝廷の宰相である三司になる政治家であるが、その出自故に嘗ては自らも通事を努めていたこともあって、当時の久米村における中国語使用の衰えとその結果としての中国語能力の低下をよく知悉しており、それを憂いていたらしい。彼は晩年に著した自叙伝(『獨物語』)で、彼は当時の久米村人は日常和文(琉球語)ばかり使っていたと嘆いている。彼は程順則の持ち帰った『六諭衍義』をみて、想像をたくましくすれば、「これだ!」とでも思ったのであろう。
蔡温の献策と努力の結果、久米三十六姓の中国語言語水準は改善を見たらしい。その証拠とまではいかないが、東恩納氏は、それまで和文であった幕府への国書が、これ以後漢文(古典漢語)を使うようになった事実を指摘している。このことから当時の情況の一半が窺えるように思える。
(国民教育社 1932年11月)