書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

福沢諭吉 『世界国尽』

2005年02月15日 | 日本史
 明治2・1869年刊。
 福沢は「附録 地理学の総論」で、政体を「その国を治むる法の立て方」と定義し、国体(その国の文化あるいは文明)とは別のものとして区別している。
 有名な「文明開化」と「蛮野」の二分法は後者に属する。正確にいえば渾沌・蛮野・未開(または半開)・文明開化の四分法である。
 政体は三分法で、君主政治(立憲君主制と専制君主制の2種)、貴族合議制、共和政治(合衆政治)から成る。政体と国体は基本的に別の分類法である。福沢は文明開化に属する国でも君主制(立憲君主制)でありえる例としてイギリス、オランダ、イスパニアを挙げている。
 (ただし共和政治の形態を取れるのはその性質上、文明開化国だけらしい。それに福沢ははっきりと書いていないが専制君主制の国は文明開化の定義からいって文明開化国ではありえないはずである。現に彼が例に挙げているのはトルコと中国だ。どちらも未開・半開国とされる国である。もっとも福沢はトルコ・中国のほか未開・半開の中には入っていないロシアも挙げているが、おかしなことにロシアの名は文明開化国とされる国々の中にもない。)
 岩倉具視も国体と政体とをはっきり分けている。「政体ノ事 /万世一系ノ天子上ニ在テ、皇別神別蕃別ノ諸臣下ニ在リ、君臣ノ道上下ノ分既ニ定マリテ万古不易ナルハ我ガ国体ナリ、政体モ亦宜シク此ノ国体ニ基ヅキ之ヲ建テザル可カラズ」。(「政体建定」明治2・1869年。昨年12月2日欄、大久保利謙『岩倉具視』参照)
 話が変わるが中国清末の政治思想では(洋務論、変法論、革命論のうち、少なくとも洋務論、変法論までは)、国体と政体を区別していないようにどうも見えるのだが、どうだろうか。
 日本の明治維新は政体の変更だけである、あるいはそうだというのが建前だった(実際には国体にまで変更は及んでいる。福沢が目指したのはもちろん国体の変更だったし、岩倉にせよその国体認識は理想つまりフィクションであって、明治政府はこの理想に従って現実に存在する日本文化を変革したのである)。
 清末の変法論から革命論への移行は、つまりは政体の変更から国体の変更への方針転換である。しかし政体を国体と混同していたために政体の打倒をもって国体(すなわち伝統文化)の打倒と誤認したという面はないのだろうか。粗雑ながらも自分にとっての一仮説として立ててみる。

(中川眞弥編 『福澤諭吉著作集 2』 慶應義塾大学出版会 2002年3月)