書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

荒木見悟責任編集 『世界の名著』 19 「朱子 王陽明」

2018年09月09日 | 東洋史

 この朱子の主張〔理一分殊〕は、もちろんそれなりに筋が通っているといわねばならない。ただそれはあくまで世界統一原理としての理体系が存することを前提し、その理体系に随順するところに本心の満足が得られることを予測してのことである。もしも一元的な理体系と現実とのずれ〔原文傍点〕に注目し、そのような理体系への随順に本心の満足が得られなくなるとするならば、個別的な理から理へと類推して行くことは不可能であり、それを強いられれば強いられるだけ本心は反撥を感じるだけであろう。
 (荒木見悟「近世儒学の発展 朱子学から陽明学へ」本書69頁)

 私は王廷湘や山鹿素行とおなじで、それぞれことなるありようの万事にどれもまったく同じひとつの理は存在できない、さらに、それでは格物致知の必要はなく論理矛盾になると思っているが、それは宋一代(王廷湘は明代の人)はそれで少なくとも表向きには通ったのだろう。信念であればそれで客観世界もそのはずだ、そうでなければならないという認識で通ったということであろうと思われる。
 ただ時代の下った明代ではその信念だけでは客観世界の認識と折り合いがつかなかくなって、そこに陽明学の生まれる契機があったということか。
 溝口雄三先生が仰るところの、「明代人の心にはもはや宋代理観は適応的でないということの表明」また「〔明代人が〕宋学的天理を拒否したのはそれが天の命であるからではなく、明代のリアリズムにとってそれがもはや天の理たりえないからであり、だから彼らは〔略〕自己の心性においてあるべき理を実得しようとした」とは、荒木先生の指摘されるこのことをも含めて言われたものであろうか。

(中央公論社 1978年12月初版 1992年6月4版)