『日本中国学会報』53, 195-212, 2001。
本論文の議論および引用・紹介される史料から副次的にわかることは、新儒教では「心」は客体として存在を捉えられているが、その内容は必ずしも分析的に究められておらず、よってその働きたる「思」の内容も精密ではないという事実である。
本論文の議論および引用・紹介される史料から副次的にわかることは、新儒教では「心」は客体として存在を捉えられているが、その内容は必ずしも分析的に究められておらず、よってその働きたる「思」の内容も精密ではないという事実である。