先達の教えをあらためて叩く。
王陽明において「良知」が、“個々人が倫理的判断を為す主体”として、客観的にその存在を認識されていることを確認する。その持つ作用については言うまでもない。ただしそれは、「天理」と同じ、また「道」と同じともあり、「動物や植物にもある」ともされており、朱子学の「理」と同じ側面もまた有する。
9月10日補足。
溝口雄三先生は良知を「人の道徳的本性(良知、心の本体)」と定義しておられる。(溝口雄三訳『王陽明 伝習録』中公クラシックス、2005年9月、22頁)
また日原利国編『中国思想事典』(研文出版 1984年4月初版第1刷、1992年10月初版第2刷)、上田弘毅執筆「良知説」項は、「道徳的判断・行動の主体」と説明する。
(たちばな出版 1995年4月第1刷 1995年5月第2刷)
王陽明において「良知」が、“個々人が倫理的判断を為す主体”として、客観的にその存在を認識されていることを確認する。その持つ作用については言うまでもない。ただしそれは、「天理」と同じ、また「道」と同じともあり、「動物や植物にもある」ともされており、朱子学の「理」と同じ側面もまた有する。
9月10日補足。
溝口雄三先生は良知を「人の道徳的本性(良知、心の本体)」と定義しておられる。(溝口雄三訳『王陽明 伝習録』中公クラシックス、2005年9月、22頁)
また日原利国編『中国思想事典』(研文出版 1984年4月初版第1刷、1992年10月初版第2刷)、上田弘毅執筆「良知説」項は、「道徳的判断・行動の主体」と説明する。
(たちばな出版 1995年4月第1刷 1995年5月第2刷)