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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

湯浅幸孫 『近思録』 上下

2012年08月17日 | 東洋史
 朱子は、「蓋し合せて之をいえば、万物の統体(全体)は一大極なり。分ちて之をいえば、一物ごとに各おの一太極を具(そな)う」と言った。ここでいう“太極”とは“理”(=自然界の物理的法則にして社会の道徳法則)の同意語であると、湯浅氏は注釈しておられる。さらに、氏によれば、全体と各事象における“理”のこのような関係(朱子の言葉では「理一分殊」)は、「田の面(も)に浮かぶ月に喩えられよう。かの面、この面に、月は影を宿しているけれども、月自体は唯ひとつである」という(以上、『上』、「道體篇」同書8頁)。
 この世の事象一つ一つに、完全な形の月(=太極・理)が内蔵されているのであれば、どれか一つの理を究めれば全体の理が得られるわけで、格物致知の必要はない。それ以前に、四書五経にその太極・理はすでに説かれているわけで、個別の理も全体の理も同じであれば、そもそも一物一事すら窮める必要はない。朱熹も呂祖謙も周濂渓も、張横渠・程明道・程伊川も、みな没理漢の阿呆だ。蓋し合せて之をいえば、この本の読後感はそれに尽きる。

(朝日新聞社 1973年8月/1974年10月)