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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

池田信夫 「ヨーロッパ左翼思想の到達点 - 『21世紀の資本』」

2014年12月08日 | 抜き書き
 『アゴラ』http://agora-web.jp/archives/1623621.html

 フランス革命におけるegaliteとは、ひとしく理性をもって生まれてくる人間には同じ権利があるという天賦人権論であり、そういう抽象的な人権の概念を否定する英米の保守主義とは異なる。/つまりヨーロッパの左翼は、英米の『保守革命』の依拠するバーク的な自由主義に対して、ルソー的な人権思想を根拠にして『大きな政府』を提唱しているのだ。

中村元 『中村元選集〔決定版〕』 10 「思想の自由とジャイナ教」

2014年12月08日 | 人文科学
 かれ〔マハーヴィーラ〕は合理主義的な立場に立って、あらゆる人間があらゆる時あらゆる処において遵法すべき普遍的な法(dharma)があると考えた。たとえば「生きものを殺すべからず」というのは、「清らかで永遠なる常住の法」〔略〕であると主張している。  (「第二篇 ジャイナ教」「第一章 原始ジャイナ教 六 根本的立場 (三)合理主義」本書198頁)

 興味深い。それを普遍的な法とする理由は何か?

(春秋社 1991年3月)

マイケル・S・ガザニガ著 藤井留美訳 『“わたし”はどこにあるのか ガザニガ脳科学講義』

2014年12月08日 | 自然科学
 中山元『正義論の名著』(筑摩書房 2011年6月)を読んで、人間社会の起源や人の精神、なかんづく道徳観念の成り立ちを実証的に考えるには人類学とくにサル学に通暁することが必須ではないかと思わされたのだった(過去の思想家が設ける古代社会の前提はほとんど夢想の範疇だから)。この本を読んで、あと、それに加うるに脳科学かと。素人考えではあるけれど。

(紀伊国屋書店 2014年9月)

小島毅 『靖国史観 幕末維新という深淵』

2014年12月08日 | 日本史
 気は、西洋の原子論――現代科学が前提にしている素粒子物理学の、その源流となっている発想――的な意味での粒子状の原子(アトム)ではない。〔略〕気は説明するための概念・用語であって、説明されるものではなかった〔略〕。いわば自明な存在であった。〔略〕理とは世界の道理であり、宇宙の法則である。そこから逸脱することをなにものも許されない絶対的な真理である。それは時と所に限定されない。昔も今も理は不変だし、西でも東でも理は普遍である。その意味では、〔気と同じく〕また一神教の神に当たるかもしれない。 (「第二章 英霊」「東湖の詩を支える儒教的世界観」130-131頁)

 筆者は靖国における英霊の存在を、理気、なかんづく気と結びつける(同章「理気論による『英霊』観」「水戸学の死生観が生んだ靖国神社」および「靖国問題の源流にある儒教」131-137頁)。私も同意する。ただしその結びつけかたは、私とはやや異なる。正確に言えば、東湖の気に対する考え方は私が理解する儒教(朱子学)の気とは、というべきかもしれない。

(筑摩書房 2007年4月)

ダライ・ラマ六世ツァンヤン・ギャムツォ著 今枝由郎訳 『ダライ・ラマ六世恋愛彷徨詩集』

2014年12月08日 | 文学
 黄泉の地獄の閻魔王/善悪映す鏡持つ/この世は公正ならずとも/あの世に清き裁きあれ  (70頁)

 今枝氏のすばらしい日本語も与っているとは思うが、全篇すばらしい詩編である。
 ところでここの「公正」はいかなる意味だろう。
 その教えを嫌って還俗した六世にとり、チベット仏教が公正の基礎(=正義)たりえるはずがない。そしてそもそも、ここはもとのチベット語ではどういう詞で、どういった概念のものなのだろう。博雅の士の教えを乞う。

(トランスビュー 2007年5月)

野上照代 『もう一度 天気待ち』

2014年12月08日 | 映画
 黒澤監督の作品は、あくまで私が観たそのなかで言えばだが、比較的早い時期の何本かを除き、よくわからない。 しかしこの回想録は、黒澤映画のカメラ横と後ろからの、当事者による、自身の堅牢な記憶と周囲への確認作業に基づく証言、同時に黒澤映画の観客への「いかに観るか」の助言として、とても面白かった。未見の作品も含めできるだけ見直してみようという気に。

(草思社 2014年1月)