書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

金泰俊 『虚学から実学へ 18世紀朝鮮知識人 洪大容の北京旅行』(その2)

2014年12月07日 | 地域研究
 同書、3頁。

 東アジアの旅人は概して穏やかな好奇心の持ち主であった。  (「一 燕行の制度と『乙丙燕行録』」「子弟軍官・洪大容の旅」)

 なんという美しい文章であろう。

 アジア、アメリカ、アフリカなどに旅したヨーロッパ人たちのように冒険心、利欲、布教熱に駆られて、いきおい情熱的に行動する旅人たちとは違っていた。『乙丙燕行録』(一七六五)の著者、洪大容(一七三一~一七八三)もそのような穏やかな旅人の一人であった。 (同頁) 

 「評する人も評する人、評さるる人も評さるる人」という、古人の言葉が頭に浮かぶ。洪大容は二百数十年の時を隔てて、またとない知己を見いだしたと言うべきかもしれない。

 彼はいわゆる軍官という資格で一七六五年の燕行使節に随行した。〔略〕軍官とは武漢のことであるが、実際はそうではなかった。『子弟軍官』と呼ぶことからも解るように、三使〔金谷注・正使、副使、書状官〕の子、甥のなかから任命される文官がほとんどであった。〔略〕この子弟軍官の目的はただただ見学にあった。彼らにとって六ヵ月ほどの燕行は修学旅行か短期外国遊学のようなものであった。行動はほとんど自由であった。 (同頁)。

 三使それぞれ数名を伴ったという「子弟軍官」は、その自由さゆえに物見遊山程度で終わった例もさぞや多かったであろうが、洪大容はその「穏やかな好奇心」と、同時代人からさえ「ものずき」と呼ばれたその旺盛な行動力とによって、規則と先例でがんじがらめの正使たちには行けないところへ行き、見られないものを好きなだけ見たのである。

(東京大学出版会 1988年5月)

維基百科 「朴趾源」 項

2014年12月07日 | 地域研究
 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B4%E8%B6%BE%E6%BA%90

 1780年6月,朴趾源与堂兄朴明源跟随祝贺清朝乾隆帝寿辰的使节团,越过鸭绿江到中国北京、热河等地,又于同年10月末回到汉阳。在中国的5个月时间丰富了他的人生经历。在他的眼中,一直被看作是胡虏的清朝,已经牢牢地掌握中国的政权并引领着先进的文化。  (「1.1 出遊中国」)

 彼が洪大容と同じく、正使ではなくその随員として燕行使節に参加していたことはかろうじて書いてあるが、あとは中国(中華)側からの型どおりの見方にすぎない。この項の筆者は『熱河日記』巻一がどういう書き出しになっているのか知らないのではないか。「崇禎百五十六年癸卯」と、年を記しているのである。

金泰俊 『虚学から実学へ 18世紀朝鮮知識人 洪大容の北京旅行』(その1)

2014年12月07日 | 地域研究
 本書の主人公である洪大容の先人にして先学である朴趾源は、燕行使として清の北京に赴いた際、文言文をもって彼の地の文人とさかんに交歓した。その過程で、彼は面白いことに気づいた。彼らは筆談においてはすばらしく文章が巧みなのだが、自分の詩文になると打って変わって拙いということにである。
 筆談でやりとりされる内容は、もっぱら経史子集である。それはつまり、いにしえの世界のことやものを、いにしえの語彙と表現で書きあらわすばかりということである。というより、それしかできない。そこには“いま”の世界を表す言葉も概念もないのだから。その“いま”の世界を生きる文人たち本人の思考や感情を示すことも、またできない。

 故に、と朴は考える。

 彼らが無理に詩文を作る時には、古の感情が伴なわず、文字と言葉がまったく異なる二つのものになってしまう。 (47頁に引く『熱河日記』「鵠汀筆談」。金氏翻訳)

 慧眼というべきであろう。
 ただ、今村与志雄訳『熱河日記 朝鮮知識人の中国紀行』(全2巻、平凡社1978年3/4月)のこの箇所の翻訳もそうだが、わかったようでいまひとつよくわからない。今村訳では「経史子集・・・」とそれに続く一連のくだりは以下のようになっている。

 経・史・子・集は、その口頭の成語なのである。〔略〕そのため強いて詩文を作ると、本来の感情を失っているから、口頭語と文章語が明確に二つに分裂するのであった。 (第2巻、285頁)

 朴の原文ではその前後を含めてこうなっている。

  経史子集随手拈来,佳句妙偈順口輒成,皆有条貫,不乱脈絡,〔略〕中国直以文字為言,故経史子集皆其口中成語,〔略〕為之強作詩文,則已失故情,言與文判為二物故也。
  (上海書店出版社、朱端平校点、1997年12月、243頁。原文旧漢字)

 この"口中成語”は、「口の端に上せ筆に載せるのに常日頃から慣れ親しんだ、頭の中からすぐさますらすらと、何も考えずに出てくる、決まりきった出来合いの表現・文句」という意味ではないのか。
 
(東京大学出版会 1988年5月)