同書、3頁。
東アジアの旅人は概して穏やかな好奇心の持ち主であった。 (「一 燕行の制度と『乙丙燕行録』」「子弟軍官・洪大容の旅」)
なんという美しい文章であろう。
アジア、アメリカ、アフリカなどに旅したヨーロッパ人たちのように冒険心、利欲、布教熱に駆られて、いきおい情熱的に行動する旅人たちとは違っていた。『乙丙燕行録』(一七六五)の著者、洪大容(一七三一~一七八三)もそのような穏やかな旅人の一人であった。 (同頁)
「評する人も評する人、評さるる人も評さるる人」という、古人の言葉が頭に浮かぶ。洪大容は二百数十年の時を隔てて、またとない知己を見いだしたと言うべきかもしれない。
彼はいわゆる軍官という資格で一七六五年の燕行使節に随行した。〔略〕軍官とは武漢のことであるが、実際はそうではなかった。『子弟軍官』と呼ぶことからも解るように、三使〔金谷注・正使、副使、書状官〕の子、甥のなかから任命される文官がほとんどであった。〔略〕この子弟軍官の目的はただただ見学にあった。彼らにとって六ヵ月ほどの燕行は修学旅行か短期外国遊学のようなものであった。行動はほとんど自由であった。 (同頁)。
三使それぞれ数名を伴ったという「子弟軍官」は、その自由さゆえに物見遊山程度で終わった例もさぞや多かったであろうが、洪大容はその「穏やかな好奇心」と、同時代人からさえ「ものずき」と呼ばれたその旺盛な行動力とによって、規則と先例でがんじがらめの正使たちには行けないところへ行き、見られないものを好きなだけ見たのである。
(東京大学出版会 1988年5月)
東アジアの旅人は概して穏やかな好奇心の持ち主であった。 (「一 燕行の制度と『乙丙燕行録』」「子弟軍官・洪大容の旅」)
なんという美しい文章であろう。
アジア、アメリカ、アフリカなどに旅したヨーロッパ人たちのように冒険心、利欲、布教熱に駆られて、いきおい情熱的に行動する旅人たちとは違っていた。『乙丙燕行録』(一七六五)の著者、洪大容(一七三一~一七八三)もそのような穏やかな旅人の一人であった。 (同頁)
「評する人も評する人、評さるる人も評さるる人」という、古人の言葉が頭に浮かぶ。洪大容は二百数十年の時を隔てて、またとない知己を見いだしたと言うべきかもしれない。
彼はいわゆる軍官という資格で一七六五年の燕行使節に随行した。〔略〕軍官とは武漢のことであるが、実際はそうではなかった。『子弟軍官』と呼ぶことからも解るように、三使〔金谷注・正使、副使、書状官〕の子、甥のなかから任命される文官がほとんどであった。〔略〕この子弟軍官の目的はただただ見学にあった。彼らにとって六ヵ月ほどの燕行は修学旅行か短期外国遊学のようなものであった。行動はほとんど自由であった。 (同頁)。
三使それぞれ数名を伴ったという「子弟軍官」は、その自由さゆえに物見遊山程度で終わった例もさぞや多かったであろうが、洪大容はその「穏やかな好奇心」と、同時代人からさえ「ものずき」と呼ばれたその旺盛な行動力とによって、規則と先例でがんじがらめの正使たちには行けないところへ行き、見られないものを好きなだけ見たのである。
(東京大学出版会 1988年5月)