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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

帯谷知可 「オストロウーモフの見たロシア領トルキスタン」

2012年12月29日 | 地域研究
 ニコライ・ペトローヴィッチ・オストロウーモフの伝える19世紀末-20世紀初頭の西トルキスタンにおける現地語・ロシア語“双語教育”事情。
 この人の『サルト(Сарты)』(3-е издание, Ташкент, 1908)という著書、読んでみたい。
 ちなみにこの人、1917年に1877年以来住んでいたタシケントから故郷のロシア・タンボフ県に帰っていたが、1921年に再びタシケントに戻っている。
 
(『ロシア史研究』76, pp. 15-27, 2005-05-25)

Sean R. Roberts 「Imagining Uyghurstan: re-evaluating the birth of the modern Uyghur nation」

2012年12月29日 | 地域研究
 長いばかりでくだらない。読むのに青息吐息となった。1921年以前に 'pre-national' identity が後に「ウイグル人」と呼ばれる人々の間にあったと主張するのだが、「なかった」とは誰も言っていない。あったのは確かだが、その程度と具体的な有り様がどうであったかが、問題なのだ。問題設定からしてずれている。もとがおかしいから、あとはいくら綿密に論を組み立て先行研究を丹念にひっぱってこようと、むしろそうであればあるほど、読む側はなぜ随いてゆかねばならないのかが分からず、苦痛になるだけだ。
 この論文には、'pre-national' identity の例証となりえる事例については多々挙げているが、肝心の'pre-national' identityについての定義がないから、挙げられるおびただしい事例を評価できない。西トルキスタンに逃れたタランチとトゥンガン(回族)と、それから東トルキスタンのカシュガルリク(カシュガル住民)にはあったというのだが、ではそれは裏を返せばそれ以外の新疆(天山山脈の南と北)地域には、なかったということである。これを「そんなにあった」と肯定的に捉えるのか、それとも「それだけしかなかった」と否定的に捉えるのか。評価の座標軸が示されないから、当然評価もされない。それでは読む方は途方にくれる。
 それだけではない。そもそも本文にセルゲイ・マローフの名が出ず、「ウイグル」の語が選ばれた理由についても触れず、文献目録に日本人の研究が一つも見えないというのはどういうことだろう。
 しかしながら、少なくとも私にとっては、文献目録は辛うじて役に立った。1921年タシュケント会議についての関係研究(論文および著作)を知ることができたからだ。それ以外はいまのところ、どうしようもないという感想しか持たない。

(Central Asian Survey, vol. 28-1, 2009)