書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

内村鑑三 「予の宗教的生涯の一斑」 から

2009年04月16日 | 抜き書き
 題名下、「明治35年12月10日『聖書之研究』29号「講演」 署名 内村鑑三」の但し書き有り。
 「宗教の大敵」のもととなった講演の全文。「宗教の大敵」は分量として全体の約6分の1、内容的には最後部分に当たる(澁谷浩「解題」)。 

 殊に私共が信仰の初期に於て感じた困難は何であるかと申しまするに、それは愛国心と基督教の衝突であります、其衝突は今日吾々日本人が基督教を信ずる時に必ず免るべからざる衝突であります、〔中略〕それ故に私共基督教を信じました時に、先づ第一に決断をした事は何であるかと云ふと、私共は基督教を信じやう、基督教は信ずるけれども外国人からは金は一文も貰ふまい、基督教を信じても外国にある何派とか何教会とか云ふ者とは一切関係を絶つて吾々日本人は日本人で基督教を信じやう、日本国の着物を着せた基督教を此国に拡めやう、と斯う云ふ考を起しました、 (418頁-419頁。太字部分は原文傍点または○点または◎点)

 はたして妥当かどうかは分からないが、一つの筋の通し方である。江戸時代から明治にかけての教養ある階層の日本人は神経質すぎるぐらいに物事の筋目をきちんと立てたものだという、海音寺潮五郎氏の言葉を思い出した。

(『内村鑑三全集』第10巻、岩波書店、1981年、同書415-427頁)

内村鑑三 「宗教の大敵」

2009年04月16日 | 人文科学
 今年04月10日、「白井堯子 『福沢諭吉と宣教師たち 知られざる明治期の日英関係』」から続き。
 引用された内村鑑三の文章につき、原文に当たる。
 副題「十月十日東京高輪西本願寺大学校に於ける演説の一節」。題名下、「明治35年11月1日『万朝報』 署名 客員 内村鑑三」の但し書き有り。

 政治家の政略は少しは許せる、然しながら学者の政略に至ては少しも許すことが出来ない、若し哲学者とか文学博士と称えられる人が出て仏教は別に基督教に優る所がなくとも国体を保存するに必要であれば之を保護しなければならないなど云ふ奇怪千万の説を唱へ出したならば、その時こそ実に宗教家たる者の大憤慨を発すべき時であつて、我等は共同して斯かる宗教の大敵を排斥すべきである。 (339頁)

 内村鑑三の怒りの原因がこれで分かった。内村は、福澤の態度を真理を蔽う不実・偽善の所業と看たのだ。

(『内村鑑三全集』第10巻、岩波書店、1981年、同書338-340頁)

那波利貞 『中華思想』

2009年04月16日 | 人文科学
 今年04月03日、「安部健夫 『中国人の天下概念』」より続き。

 中華思想の主なる要素が、支那は世界の中心地たりと謂ふ地理的のものと、支那は世界に於ける文化の中心なりと謂ふ文化的のものと、支那君主は王道政治を以て世界万邦に君臨しその徳沢は世界の隅々にまで光被せること日輪の遍く照らすが如きものなりと謂ふ政治的のものとの三者なる結果は、其の発するや極端に相背馳する二方向の傾向を有することとなった。一は極端なる保守排外の傾向にして一は極端なる開放博愛の傾向である。両傾向は一見すれば氷炭相和せず如何にも矛盾したるものなるが、等しく中華思想の発する所、実は相表裏して而も相分離すべからざる密接なる思想的関係を有し、或る場合には種々の事情に刺激せられて保守排外傾向が熾烈となりて開放博愛傾向が殆んど消失せられ、或る場合には開放博愛傾向は熾烈となりて保守排外傾向が消失する。 (「六 支那思想の表裏」 本書53頁。原文旧漢字、以下同じ)

 那波曰く、“保守排外傾向”と“開放博愛傾向”とは同じ中華思想の裏表と。であるならば、那波の謂う“保守排外傾向”は狭義の天下概念に基づく“小中華主義”、“開放博愛傾向”は広義の天下概念に基づく“大中華主義”と、更にそれぞれ一つのコインの裏表であるとして見ることができるか否か。

 支那人の国家的自負心・国家的自尊心・中華の矜持の毀傷せらるゝや中華思想は極端なる保守排外の傾向に発現する〔中略〕。支那人の国家的自負心が毀れず、国家的自尊心が傷つけられざる場合、殊に諸異民族・諸外国は従順に支那に帰服朝貢せる時は勿論、帰服朝貢せずとも少なくとも支那に対して善意にも悪意にも積極的行動に出でず、或は全く無関係に在る場合に、中華思想は乃ち極端なる開放博愛傾向に現はれて来るのであると思ふ。 (「六 支那思想の表裏」 本書57頁)

 宋はまず遼、ついで金といった異民族王朝による圧迫に苦しみ、なかでも金には皇帝を拉致され、淮河以北の中国の北半分を占拠されたうえ、金廷に臣下として仕えさせられるまでの屈辱を味わわされた。南宋の朱熹のはじめた朱子学は、その屈辱からする中華思想の“極端なる保守排外の傾向”の最たるものとしても観ることができる。明はモンゴル人の建てた元を中原から塞外へ駆逐して建国したという経緯から言っても、建国の当初からいわば国是として保守排外・小中華主義だったのは当然である。その一方、“大中華主義”の漢・隋・唐・清の“開放博愛傾向”の由来も、この説明がよく尽くしているように思える。なかでも隋・唐・清は、国力の強大さのせいももちろんあるが、皇室が元来ほとんど異民族化した漢族もしくは純粋な異民族であったために、異民族への偏見や排外心がそもそも存在せず、開放博愛の傾向が極端にまで昂進したものと考えられる。

(『岩波講座 東洋思潮』第7巻、岩波書店、1936年7月)