書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

「日本、相次ぐノーベル賞受賞の秘訣は…」

2008年10月10日 | 思考の断片
▲「中央日報 Joins.com」2008.10.09 09:15。
 〈http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=105762&servcode=A00§code=A00&p_no=&comment_gr=article_105762&pn=1&o=

 このような底力は日本人独特の職人精神と体系的な国の支援体制から生まれている。一度研究を開始したら、師匠の業績を弟子が継承して研究するという学界風土も強固な基礎科学の土台を築くうえで一役買っている。今回の物理学賞を受賞した素粒子は日本で初めて物理学賞を授与された湯川秀樹氏の研究業績を受け継いだ結果だ。湯川氏が研究を始めた当初は素手で研究を始めたも同然だった。20世紀に入り、科学技術が発達したヨーロッパでは物質の根源に関する研究が活発に行われていた。日本も先進国について行くためには、基礎科学からきちんと研究しなければならないという方針が打ち出され、多くの学者が研究に動員された。

 一昔前までは、日本人は模倣は得意だが独創性がない、即効性や実際的な利益ばかりをねらって応用科学ばかりに力を入れて地道な基礎科学の研究をおろそかにする、師匠から受け継いだ技術をそのまま踏襲するだけの職人気質だから新奇なことをやろうとしない・・・・・・のではなかったか。今昔の感あり。皮肉ではなく。

"Sumo wrestling: Weighty matters"

2008年10月10日 | 抜き書き
▲「Economist.com」Oct 9th 2008.
 〈http://www.economist.com/world/asia/displaystory.cfm?story_id=12380869

The controversies divert attention from sumo’s long-term problems: most fans are elderly, attendance is declining and it is tougher to attract recruits. The new JSA chairman, Musashigawa, has made but one reform, allowing three outside directors to serve on the JSA’s 12-person board. The first group was recently appointed―septuagenarians all.

 Let us not forget the big picture, hopefully from a unique angle.

中嶋嶺雄 「拙速すぎた日中国交三十年の大きな代償」

2008年10月10日 | 抜き書き
 「日本財団図書館〈電子図書館)」
 〈http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00241/contents/553.htm
 もと「正論」2002年8月号に掲載。

 私は当時、官房長官の私的諮問機関としてできた国際関係懇談会の委員として、佐藤政権の時代から日中関係についての政策形成に関わるという巡り合わせにありました。その私どもの学者を中心とする国際関係懇談会のメンバーは梅棹忠夫さんとか、石川忠雄さん、衛藤瀋吉さん、永井陽之助さん、神谷不二さんら、若手では山崎正和さん、亡き江藤淳さん、同じく高坂正堯さん、そして私、特に高坂さんと私が一番若いということで幹事を務めさせられました。
 その辺の経緯については『佐藤栄作日記』や『楠田實日記』にもしばしば出ておりますが、私たちは中華人民共和国を正統政府として認めることにおいては意見が一致していたものの、台湾、つまり中華民国との関係は日本にとって極めて重大なので、台湾との関係も十分に調整しながら中国との国交樹立を実現したいと考えていました。
 そのことは七一年一月の国会における佐藤首相の施政方針演説にも、初めて中華人民共和国という言葉を使って表現されていました。その前後にはいわゆる保利書簡問題があり、自民党幹事長の保利茂さんの周恩来首相宛の書簡を美濃部都知事(当時)が訪中に際して携えていったという問題もありました。佐藤首相の首席秘書官の楠田實氏に依頼されて保利書簡の原案は私が執筆しましたが、当時、周恩来首相は保利書簡を突き返したにもかかわらず、それを見ているわけです。その中では台湾問題に関する、“日中復交三原則”にはふれていなかったために、周恩来首相としては受け取るわけにはいかなかったのだと思います。 (太字は引用者)

 当の保利茂『戦後政治の覚書』(毎日新聞社、1975年3月)には、1971年10月24日に、「もし周総理に会ったなら、私は何と言うであろうかと自問自答しつつ書簡を認め」たと、書かれている(同書130頁)。
 なおこの書には書簡の一部も引用されているが、その中に問題になったとおぼしきくだりが見える。

 私は由来中国は1つであり中華人民共和国政府は中国を代表する政府であり、台湾は中国国民の領土である、との理解と認識に立って居ります。 (130頁)

 「日中復交三原則」とは、
  ①中国政府は中国を代表する唯一の合法政府である。
  ②台湾は中国の領土の不可分の一部である。
  ③日台条約(日華平和条約)は無効で破棄されるべきである。
 の三箇条である。
 『戦後政治の覚書』中の補足説明部分(おそらくは毎日新聞記者によるもの)によれば、この保利書簡を、周恩来は、「自民党の書簡は①北京政府を中国の正統政府と認めているが“唯一”とは言っていない②台湾を中国の領土として認めているが、台湾の独立運動に対する考えが定かでない」との理由で、「信用できない」として突っぱねたという(同書131頁《保利書簡の余波》)。同年11月10日、周恩来と美濃部亮吉東京都知事(当時)、飛鳥田一雄横浜市長(当時)ほかの訪中団との会見において。