書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

中嶋嶺雄 「拙速すぎた日中国交三十年の大きな代償」

2008年10月10日 | 抜き書き
 「日本財団図書館〈電子図書館)」
 〈http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00241/contents/553.htm
 もと「正論」2002年8月号に掲載。

 私は当時、官房長官の私的諮問機関としてできた国際関係懇談会の委員として、佐藤政権の時代から日中関係についての政策形成に関わるという巡り合わせにありました。その私どもの学者を中心とする国際関係懇談会のメンバーは梅棹忠夫さんとか、石川忠雄さん、衛藤瀋吉さん、永井陽之助さん、神谷不二さんら、若手では山崎正和さん、亡き江藤淳さん、同じく高坂正堯さん、そして私、特に高坂さんと私が一番若いということで幹事を務めさせられました。
 その辺の経緯については『佐藤栄作日記』や『楠田實日記』にもしばしば出ておりますが、私たちは中華人民共和国を正統政府として認めることにおいては意見が一致していたものの、台湾、つまり中華民国との関係は日本にとって極めて重大なので、台湾との関係も十分に調整しながら中国との国交樹立を実現したいと考えていました。
 そのことは七一年一月の国会における佐藤首相の施政方針演説にも、初めて中華人民共和国という言葉を使って表現されていました。その前後にはいわゆる保利書簡問題があり、自民党幹事長の保利茂さんの周恩来首相宛の書簡を美濃部都知事(当時)が訪中に際して携えていったという問題もありました。佐藤首相の首席秘書官の楠田實氏に依頼されて保利書簡の原案は私が執筆しましたが、当時、周恩来首相は保利書簡を突き返したにもかかわらず、それを見ているわけです。その中では台湾問題に関する、“日中復交三原則”にはふれていなかったために、周恩来首相としては受け取るわけにはいかなかったのだと思います。 (太字は引用者)

 当の保利茂『戦後政治の覚書』(毎日新聞社、1975年3月)には、1971年10月24日に、「もし周総理に会ったなら、私は何と言うであろうかと自問自答しつつ書簡を認め」たと、書かれている(同書130頁)。
 なおこの書には書簡の一部も引用されているが、その中に問題になったとおぼしきくだりが見える。

 私は由来中国は1つであり中華人民共和国政府は中国を代表する政府であり、台湾は中国国民の領土である、との理解と認識に立って居ります。 (130頁)

 「日中復交三原則」とは、
  ①中国政府は中国を代表する唯一の合法政府である。
  ②台湾は中国の領土の不可分の一部である。
  ③日台条約(日華平和条約)は無効で破棄されるべきである。
 の三箇条である。
 『戦後政治の覚書』中の補足説明部分(おそらくは毎日新聞記者によるもの)によれば、この保利書簡を、周恩来は、「自民党の書簡は①北京政府を中国の正統政府と認めているが“唯一”とは言っていない②台湾を中国の領土として認めているが、台湾の独立運動に対する考えが定かでない」との理由で、「信用できない」として突っぱねたという(同書131頁《保利書簡の余波》)。同年11月10日、周恩来と美濃部亮吉東京都知事(当時)、飛鳥田一雄横浜市長(当時)ほかの訪中団との会見において。