書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

三宅雪嶺 『同時代史』 第五巻 「大正五年より昭和元年迄」

2006年08月14日 | 日本史
 『同時代史』は、雪嶺が雑誌「日本人」とその出版元である政教社から離脱して我観社を設立した1923年から、1945年、死去する直前まで、同社の「我観」(途中「東大陸」と改名)に「同時代観」の名で連載したものである。 
 『同時代史』は江戸時代の万延元年(1860年)から始まっているが、この万延元年とは三宅雪嶺の生まれた年でもある。つまり、『同時代史(同時代観)』という題名は、筆者雪嶺の生きた同時代の歴史という意味にほかならない。
 自分の直接見聞きした時代の歴史を描く利点は、時代の雰囲気を肌で知っている、勘があるというところにあるだろう。また、傑出したジャーナリストであった雪嶺は、明治時代の朝野の主要な人物とその公私の言動をほとんど直接に知っていた。だから彼の紹介するエピソードやその解釈、ひいてはそこから導き出される人物評価には無理がなく、信すべきと思わせられるところが多い。この意味で、『同時代史』はまさに成功した歴史叙述であると言えると思う。
 ひるがえって同時代を描く欠点だが、肌感覚、勘に逆にとらわれすぎて客観的な視点を確保することが難しい点、さらには取り上げる対象となる人や事件の当事者や関係者がまだ生存していて、書くことを憚らなければならない事情が、どうしても多くなるところだろう。そして、この困難さは時代が執筆者の現在に近くなればなるほどにはなはだしさを増すことは、言うをまたない。
 『同時代史』も、その例外ではないらしい。明治を過ぎ、大正から昭和へ移ろうとするこの第五巻に至って、筆の運びが徐々に渋る感がある。

(岩波書店 1967年11月第二刷)

▲「MSN毎日インタラクティブ」2006年8月13日、「小泉首相:参拝前、奥田氏に伝言託す…胡主席との極秘会談」

→http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20060813k0000m010133000c.html

 私は個人的には空襲や原爆で死んだ民間人を祀らない靖国神社へ参拝するつもりはない。日本の首相および閣僚による靖国神社参拝にも反対である。(以下に続く)

▲「Infoseek楽天ニュース」2006年8月13日、「靖国参拝1回限り容認 中韓「安倍首相」念頭に (共同通信)」
 →http://news.www.infoseek.co.jp/topics/world/korea/story/13kyodo2006081201006285/

(承前)
 しかし国を背負ってたつ首相や閣僚になれば、立場上しないわけにはいかないこともわかる。国家のために戦争で外国人=敵と戦って死ぬことが、少なくとも今日の世界においてはまだ、最高の愛国的行為とされているのであるからだ。