書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

黄文雄 『中国・韓国の歴史歪曲 なぜ日本人は沈黙するのか』 

2005年06月04日 | 東洋史
 私は、氏の東アジア近現代(アヘン戦争以後今日まで)を3期に分かつ視角に、おおむね賛成である。第3期の説明にはちょっと首をかしげる所があるが。

 第1期 アヘン戦争から義和団事件までは、中華帝国が伝統的「朝貢秩序」を守るために、列強諸国の「暴虐」に対して懲罰戦争を展開した時代。
 第2期 二十世紀初頭から第二次世界大戦の終結に至るまでは、中華帝国の復活と大日本帝国の興起をめぐる新旧帝国主義戦争の時代。
 第3期 戦後、半世紀にわたる中国と日本をめぐる政治的、経済的、思想・文化的摩擦は、世界革命と人類解放をめざす社会主義中国の世界革命と、一国平和主義国家をめざす日本の空想的、念仏的平和主義の妄想と迷走をめぐる対立の時代。
                      (1章 「『東アジア近現代史』入門」 23頁より)

 黄氏がこの本で指摘する中国と韓国の歴史“歪曲”の事実に関しては、私が知る限り、全く正しい。
 しかしながら、中国政府の「歴史認識」とは、現在の政治的必要に合わせてその都度作られるものである。
 伝統的な中国における歴史というもの自体がもともとそうなのであって、過去の事実の集積ではない。今日の現実における問題に何らかの形で関わりがあったり、その解決に利用できそうな部分の歴史だけを歴史と呼んでいるのだというぐらいに考えればよいのだと、私は思っている。そして事実のほうはといえば、役立つものが見あたらなければ役立つように変えればよい、まったく見あたらない時は造ればよいというぐらいの存在でしかないらしいとも、思っている。そして役に立たないものは無視し、あるいは抹消する。
 程度の差はあれ、この歴史観と事実に対する見方は、韓国にも共通しているように見える(北朝鮮については言うまでもない)。 
 私は、中国および韓国・北朝鮮政府の使う“歪曲”という言葉は、自分たちの関心の外にある歴史的事実を提示する行為や自分たちの利益にならない事実の解釈の仕方を意味するものだと思っている。意地悪く言えば、自分たちと違う歪曲の仕方をしている誰かを非難する時に使用する語彙ではないか。
 中国政府も韓国政府も北朝鮮政府も、自分たちのやっていることを“歪曲”とは考えてはいないだろう。厳然たる事実というものの持つ重みと価値を認めていないのであれば、そのはずである。問題はそこにあるのだ。

 それから、この書には一つ大きな難がある。戦前までの時期における日本人一般の他国他民族に対する無知と、文化的相対主義の視点の欠如と、それらの結果としての根拠なき自己絶対視と狭量で独りよがりな正義感と押しつけがましさと、それらに基づいて現地でなされた無神経(ときに残虐)きわまる諸々の行為とについてほとんど触れることがないのは、おかしい。

(光文社 1997年12月5刷)

井上晴樹 『旅順虐殺事件』 

2005年06月04日 | 東洋史
 日清戦争中の1984(明治27)年11月、旅順において日本軍兵士が夥しい数の清国人の非戦闘員を虐殺する事件が発生した。
 この書は資料の丹念な発掘に基づく事実関係の究明である。興味のある方にはおすすめである(もしかしてこの事件を専門に扱った一般向きの書籍というのはこれ一冊しかないのではないか)。
 著者は虐殺がなぜ行われたのかについて慎重で、最後まで明確な断定を下さない。だが書中紹介される史料、就中外国人記者による事件発生直後の現地レポートから、読者が自ずと「原因はこれではないか」と解釈する(あるいは立証すべき仮説を立てる)ことができるように書いている。

(筑摩書房 1995年12月)