原書は1950年出版、この邦訳の第1刷も同年に出ている。
“チベット自体は学術的には中国の一部であるが、その内部にはある程度自治権に対する要求がみられる” (同書 6頁)
分からぬ文章である。“学術的”とは何のことか。
“典型的な中国人は誠実な人間である。(略)典型的な中国人はまた生まれつき民主的である。この点でかれらは大部分の日本人に似ていないと同時にそれだけ大部分のアメリカ人に似ている。日本語には使用人を使い立てる時と妻を隷従的に威圧する時と社会的の上長に対してついしょうをならべる時とそれぞれの場合のために全く異なった言語ができている” (同書 16-17頁)
ここは“言語”ではなくて“言葉遣い”と訳すべきである。language の意味は「言語」のみではない。
訳文が悪いのである。上の“学術的”も(これは訳がひどすぎてもとの単語の見当もつかないが)原文に当たったほうがいいかもしれない。
しかしいや待てよ、もともとこの程度の本なのだからそこまでする必要もないかと思い返した。
“中国人は(過去の中国に関する著作や旅行者の報告によって)われわれが想像させられてきたよりもはるかにわれわれに近い。たしかに日本人よりは否むしろ普通のラテン系人よりもずっとアメリカ人に似た人々なのだ” (同書 16頁)
中華人民共和国成立の翌年、朝鮮戦争勃発の年に出版された原書の目的は明らかである。米国民に友好的な中国感情を持たせることを意図したプロパガンダである。そのためには当時の米国民の東アジアにおける主たる関心と支援の対象であった日本をおとしめなければならない。だから日本人を民主主義とは無縁のしかも本質的に不誠実な文化を有する民族として極端な異質化を行っているのであろう。
なお本訳書監修の平野義太郎という人物については菊地三郎『中国革命文学運動史』(本欄2003年11月9日)に興味ある指摘があって、この邦訳出版の目的を考える上で参考になる。
(岩波書店 1977年8月第40刷)