書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

桑原三郎 『福沢諭吉の教育観』 

2005年06月24日 | 日本史
 書名は“教育観”となっているが、内容は福沢の思想全般に渉る。表題は収録された論文の中のひとつからつけられたもの。
 同じ著者の『福澤諭吉と桃太郎 明治の児童文化』(→今年3月27日。4月10日柳田泉『明治初期の文学思想』上下も参照)でも感じたことだが、桑原氏の福沢に対する見方と評価は、私の福沢観と重なっていて、ほとんど異なるところがない。
 福沢の専門研究家である氏は、素人の私などとは異なって、立論にはすべからく福沢の『時事新報』論説を初めとする文章を根拠として引いている。たとえば日清戦争を福沢は決して手放しでは喜んでいなかったことは「戦勝の虚栄誇る可らず」(明治30・1897年)を見ればわかる、「我輩は寧ろ戦勝を後悔する者なり」と福沢は言っているのである、朝鮮を植民地化せよなとどは言っていないのは「日本の資本を朝鮮に移用するも危惧あることなし」(明治16・1883年)で明らかである、まして併合などは「土地は併呑す可らず国事は改革すべし」(明治27・1894年)で反対の立場を明確にしているではないか・・・・・・といった具合である。

 しかし、アジア(とくに朝鮮・中国)への侵略支持やアジア蔑視という通説を裏付けることのできる発言も同様に存在する。だから通説が存在しているわけである。
 矛盾している。
 この矛盾を解くための答えは、二つしかない。
 1.福沢がこれらの問題について、違う時と所で180度反対のことを言った。
 2.どちらかが福沢の本当の発言で、どちらかは福沢の発言ではない。つまり福沢以外の人間の発言や文章が福沢作とされるものの中に紛れ込んでいる。  
 2の立場を取るのが、伊藤正雄氏、井田晋也氏、平山洋氏である。
 1の立場を取るのが遠山茂樹氏、服部之総氏、鹿野政直氏、竹内好氏、安川寿之輔氏、子安宣邦氏といった、上記の問題をめぐる福沢批判派である。意外に思えるが、丸山真男氏、桑原三郎氏ほかの福沢擁護派も、分類すれば1になる(明言しているかどうかは別)。
 批判派はもちろんそうだが、擁護派もまた自説に有利な著作や論説だけ取りあげて自説の論拠にするご都合主義者としか言いようがない。自説に都合の悪い福沢の著作や論説は、ただ目をつぶっているだけであるからだ。両者ともにそれが本当に福沢の言説であるのかどうかの検証の労を取ろうとしないところは共通している。
 彼らは、現行の『福澤諭吉全集』の正しさを自明のこととしているのである。 
 福沢擁護者は福沢批判者に対し「テクストが読めていない」か「無知」であるがゆえに福沢を貶める者として批判する。これは正しい。だが、福沢諭吉をいわば二枚舌の嘘つきもしくは精神異常者扱いしている自分たちが批判者以上に福沢を貶めているとは思わないのだろうか。 

 福沢擁護派の中には、正当な根拠に基づいて現在の『福澤諭吉全集』(岩波書店)の内容の信用性に疑問を呈し、そして福沢批判者が貶めた福沢の名誉を回復しようとする平山氏のような人間に向かって、肝心の論にはまともに答えず、まるで己の売名のためにあらぬ言いがかりをつける輩といわんばかりの人格攻撃を行う人がいる。
 例えば竹田行之氏の「ジャーナリスト福澤諭吉」という文章である(『交詢雑誌』第482号、平成17年3月20日発行、20-30頁。2005年1月28日交詢社における講演録。もっとも竹田氏は平山氏の名前は出していない。しかし明らかにそれとわかる形の言い方であげつらっている)。
 「ジャーナリスト福澤諭吉」末尾の講演者紹介文によれば、著者の竹田氏は慶應義塾大学卒、岩波書店で『思想』編集長、編集部長を歴任し、岩波を定年退職ののちは平成3年から平成13年まで社団法人福澤諭吉協会理事を務めたという履歴の人である。
 竹田氏の講演には奇妙なところがある。『歴史とテクスト 西鶴から諭吉まで』(→今年5月31日)の井田進也氏については、これは名前をちゃんと挙げたうえ「刺激的な問題提起で、どれほど有効で、どこまで可能性をもっているかについては慎重に見究めたいと思います」と、一定の評価をしていることだ。
 井田氏の議論は、要は、現在福沢の作と思われている『時事新報』論説の中に福沢の作ではない文章が混じっているというものである。この点においては平山氏が『福沢諭吉の真実』(→2004年12月14日)で提出された議論と変わるところがない。井田氏の主張が「刺激的な問題提起」なら、平山氏の主張も当然ながら「刺激的な問題提起」であろう。ところが平山氏だけ否定して井田氏については「どれほど有効で、どこまで可能性をもっているかについては慎重に見究めたいと思います」と、口先だけの社交辞令で要は黙殺ながら、一応は評価するという素振りを見せるのはどういうわけであろうか。
 この待遇の差は、まさか平山氏が助手(静岡県立大学国際関係学部)で井田氏は教授(東京都立大学人文学部を経て現在は大妻女子大学比較文化学部)だからではあるまい。

 この講演を行った時の竹田氏は、昭和版『続福沢全集』第5巻に記されている石河幹明(大正版『福沢全集』および昭和版『続福沢全集』の編者)の以下の言葉を忘れておられたのであろう。

“(福沢先生は)二十四五年(注・明治)頃から草せらるゝ重要なる説の外は主として私に起稿を命ぜられ、其晩年に及んでは殆ど全く私の起稿といつてもよいほどであつた。勿論其間にも私自身の草案に成つたものも少なくなかつたが、先生は病後(注・1898年9月第1回の脳出血の後、1899年2月以降)も私に筆記せしめられたものがある。則ち本篇の「先生病後篇」と題する七十余篇がそれである” (前掲書 737頁。平山洋『福沢諭吉の真実』75頁の引用による)

 平山氏は、この石河の言葉を引用した後、現行の富田正文編『福沢諭吉全集』(1964年)は石河のいう「先生病後篇」までも福沢の著作として収録している事実を指摘している(『福沢諭吉の真実』 78頁)。
 今月20日の伊藤正雄『福澤諭吉論考』における問いに対する答えがこれで出たわけだ。編者自身が全集のなかでこう明白にことわっているのであるから、現在の富田正文編『福沢諭吉全集』(1964年)が出るまでは、『福沢全集』『続福沢全集』に福沢のものでない文章が混じっているのは、日本近代史・思想史研究者(のみならず注意深い一般の読者)にとっては、やはり周知の事実だったのである。

 それとも竹田氏はこの事実について故意に口を噤んでいるのであろうか。
 竹田氏は、富田正文の現行『福沢諭吉全集』の版元である岩波書店の社員だった。さらには、伝え聞くところによれば氏は富田版の『福沢諭吉全集』(岩波書店)の編纂も手伝われたそうである。だから石河のこの言葉や大正・昭和版『福沢全集』にまつわる諸事情を知らなかったとは思えないのである。
 しかしながら、昭和25(1950)年慶応卒業という御歳である氏はそろそろ往事茫々の境地になり始めておられるのではないかと考えることもできる。むしろこちらの方が自然な推測かもしれない。学問的論争の場で論理を以て論理に立ち向かうのではなく、相手の人格を貶めて論者の信用を落とそうという不見識な手段に訴えた時点で論争自体には既に負けているのだという簡単な道理もおわかりにならなくなっておられるのを見れば、その可能性は大である。
 いずれにせよ一つ確実に言えることは、氏が学問的な真理よりも岩波書店の面子と現行の『福沢諭吉全集』の権威を護っているという印象を一般に与え、ご自身については言うまでもなく他の真面目な福沢研究者(ということは必然的に福沢の擁護者になるわけだが)の信用までも失墜させているということだ(氏は現在『福澤諭吉年鑑』および『福澤手帖』の編集委員として編集作業に加わっておられるそうだが、これらの出版物の信用も墜としていることは言うまでもない)。氏の経歴と学界内における地位を考えれば、これは決して誇大の言ではないと思う。
 竹田氏は、そろそろ後進に道を譲られるべきではないか。

(慶應義塾大学出版会 2000年11月)