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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

塩川伸明/池田嘉郎編 『東大塾 社会人のための現代ロシア講義』

2016年10月10日 | 地域研究
 出版社による紹介

 ソ連解体を残念に思わない者には心がない.ソ連を復活させられると考えられている者には頭がない。 (「第1課 歴史 現代史のパースペクティヴにおけるソ連とロシア」で引用される現代ロシアの一表現、本書27頁)

 また、「第10講 ロシアの今後 ロシアのゆくえ,そして日ロ関係を考える」(和田春樹執筆)などあり。本書264-295頁。

(東京大学出版会 2016年6月)

宋栄培 「略論利瑪竇向東方文人介紹世界地図和演繹法思惟的意義」

2016年10月10日 | 地域研究
 原題:宋荣培「略论利玛窦向东方文人介绍世界地图和演绎法思维的意义」、《嘉应学院学报》2009年第5期掲載、同誌24-29页

 非常に興味深い。ただ「东方(東方)」という字句が本来の意味の「アジア全域」ではなく「中国」のみを指す言葉として用いられている(ほかでも例を見る)ことがやや気になる。

塚田清策 「沖縄の安国山樹華木之記碑」

2016年09月30日 | 地域研究
 『信州大学教育学部紀要』20、1968年10月掲載、同誌107-113頁。

 同碑文の原文が収録されている。著者も指摘される通り、全体として平易な漢文(古文)で書かれているが、ところどころ“単純”ながら“駢体文を思わせる”対句が挿まれている。だが古文でも対句(的手法)をまったく使わないわけではないから、破格というほどではない。そしてこれも著者が仰るように、対句を文章で用いるのは、「その文の音調を整える点に於て重要な価値がある」のであり、その事情は、古文においてもかわらない。
 碑の文章を草したのは、碑文の末尾にその名が記されている安陽澹菴(あんようたんあん)という人物だが、これは、上里隆史氏のご意見によれば、禅宗の僧侶らしい。

David Brophy, "Uyghur Nation"

2016年09月26日 | 地域研究
 副題:"Reform and Revolution on the Russia-China Frontier"
 出版社による紹介

 非常に興味深い。
 セルゲイ・マーロフはその人生の早い時期にブルハン・シャヒディと出会っている。1913-1915年の間のいつか(1914年2月?)、ウルムチにおいて。本書51頁。ブルハンの『新疆五十年』にも載っていたかどうか。1921年アルマアタ(もしくはタシケント)会議のことは出て来ないが、1934年に彼が行った”唯一公的な”関係コメントとして、“クラプロートが主張しているように、新疆のテュルク系住民はウイグル人の伝統を受け継ぐ者であると科学的見地から言うことができる”(大意)という発言が紹介されている。本書229頁。
 ただ、この“ウイグル人”認定の全過程において、マーロフのような言語学者の果たした役割は偶発的・副次的なもので中心的なものではまったくなかったと著者は断じている。ただしその根拠は示されていない(同上頁)。

2016年9月30日注記。

 『新疆五十年』(北京、文史資料出版社 1984年2月)を、念のため「楊増新統治時期」の終わりまで繰ってみたが、マーロフの名は出て来ない。

(Harvard University Press, April 2016)

曹長青 「星巴克咖啡喝不出中国民主」 を読んで

2016年09月20日 | 地域研究
 原題「星巴克咖啡喝不出中国民主」。 長青論壇2016-09-19。末尾に「原载《看》杂志2016年9月号」との記載あり。
 
  但在今天这民主黎明的时刻,占世界人口最多的中国仍是专制统治,这不仅是中国人的悲哀,也是所有华人的耻辱。
  当然,从“人的本质是自由”的论定,从迄今为止人类历史的进程来看,人们都有理由笃信中国一定会成为民主国家。


 「中国に(体制としての)民主主義はなくても(社会としては)日本より自由だ」という声をしばしば聞く。その”自由”という言葉の内実を考える必要があると思う。何をもって彼の人は自由と云い、此方は自由と言うか。価値が異なれば、おなじ事実あるいは状況でも評価判断が違ってくる。
 ソ連が存在していた時代、「ソ連や東欧のほうが日本や米国より民主的で、人民も自由だ」という人がいた。此方の民主主義や自由はブルジョア思想のまちがったそれで、これを民主主義であるとか、自由だとか思うのは支配者に洗脳されているのであり間違っているとのことだった。
 これはつまり、こちら側で言うところの民主主義や自由はあちら側にはないということである。
 たとえば、中国について、『アメリカ独立宣言』の有名な以下のくだりなど、歴史的に、またしたがって文化・伝統的に、どこを取ってみても、まったく関わりがない。ここに見える諸概念・その発想・それらに基づき展開される論理において。

  We hold these Truths to be self-evident, that all Men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty, and the pursuit of Happiness—-That to secure these Rights, Governments are instituted among Men, deriving their just Powers from the Consent of the Governed, (後略)
 (「天ノ人ヲ生スルハ、億兆皆同一轍ニテ之ニ附與スルニ動カス可カラサルノ通義ヲ以テス。即チ通義トハ人ノ自カラ生命ヲ保シ自由ヲ求メ幸福ヲ祈ルノ類ニテ他ヨリ如何トモス可ラサルモノナリ。人間ニ政府ヲ立ル所以ハ、此通義ヲ固クスルタメノ趣旨ニテ、(後略)」) (福澤諭吉訳)

 第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。(略)
 第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。 (『日本国憲法』)

佐々木高明 『日本文化の多重構造』

2016年08月28日 | 地域研究
 「序論 アジア的視野から日本文化の成立を考える 第二章 東アジアにおける民族文化のダイナミズム――紀元前一〇〇〇年紀を中心とした文化変動―― 一 東アジアにおける言語類型とその変化」に、“統辞構造の変化”として、通時的には殷と周の言語の順行構造・逆行構造の差異および前者から後者への変化、共時的には東アジア地域におけるその南北で北の逆行構造から南の順行構造への言語分布のグラデーション状の変化が存在する事実について、橋本萬太郎説を借りて言及がなされている。また“越文化とその特色――エバーハルトの学説を中心に”では、エバーハルトの『中国史概説』が紹介され、彼の「八つの地方文化」論が取り上げられて いる。エバーハルトの説では、この八つのなかの一である越文化は、もともと焼畑農耕の山地民の瑶文化と水田耕作をのタイ文化とが混成することによって成立した混合文化だった(60頁)のであり、そしてその瑶文化は照葉樹林文化であるとして、エバーハルト説と佐々木論とが結びつくわけである。橋本説にせよエバーハルト説にせよ、却って本来の中国史・東洋史において昨今個人的にはあまり出会っていないので、懐かしい感じがした。

(小学館 1997年3月)

《方言據》 (圖書館) - 中國哲學書電子化計劃

2016年08月27日 | 地域研究
 http://ctext.org/library.pl?if=gb&res=81773

 語の内包を定義してある。「“定義”にあたる“語”はこれこれ」という語順。「混沌不明了謂之霧淞〔混沌として明了ならざる、之を霧淞と謂う)」(「巻上」冒頭項)。
 これは、やや形は異なるが、戴震が『孟子字義疏証』で指摘した、「A之謂BはB也者A之謂(也)の倒置」の一例か。

 孟子凡曰「謂之」者,以下所稱之名辨上之實,如中庸「自誠明謂之性,自明誠謂之教」,此非為性教言之,以性教區別「自誠明」「自明誠」二者耳。(『孟子字義疏証』「巻中 天道四条」)

 なお著者は明代後期(万暦時代)の官僚で、浙江嘉興の出身。宋の岳飛の子孫に当たる由。
 同書「小引」によれば、この著は著者の郷里の方言(語彙・表現)を共通語(文言文)で説明したものらしい。

青木正兒 「名物学序説」

2016年08月27日 | 地域研究
 テキストは『青木正兒全集』8(春秋社 1981年6月)収録のものを使用。

 「〔『爾雅』は〕十九篇より成り、先づ釈詁・釈言の二篇は主として名詞・動詞・形容詞の訓詁(解釈)を集めてあり、之に次ぐ釈訓篇は主として副詞・形容詞を集めてある〔後略〕」(10頁)とあり、また、『釈名』についても、「『釈姿容』が人の姿勢動作を現はす語、即ち主として動詞であるのと、『釈言語』が抽象名詞及び動詞・形容詞を雑採してゐる〔後略〕」と記している(原文旧漢字)。
 これは、当時の漢語にこれらの西洋語に基づく文法概念と同品詞が偶然ながら存在したということであろうか。あるいは後世の、たとえばそれらの文法知識のある著者からみてそれと看取できる外見上類似の現象がある、換言すれば一種の比喩表現だということであろうか。それならこれは厳密なる学問であるのかどうか。
 ちなみに事承尭は青木の名物学の学問的アプローチをこう評している。

 中国の文学を理解するためにはまずもって物の名の意味を正確に把握する必要があると青木が指摘されるように、『物の名の意味の正確な把握』は、中国における原意と和訓との比較だけにとどまらない。その取り組みは百科全書づくりにも匹敵する膨大な作業であった。名物学は青木にしかできない学問であったのかもしれない。 (「青木正児とその名物学研究」“二、青木の名物学研究のスタイル”)


李實著 黄仁壽/劉家和等校注 『蜀語校注 四川古代方言詞典』

2016年08月26日 | 地域研究
 《蜀语》是我国现存第一部“断域为书”的方言词汇著作。全书共收录四川方言词语563条,忠实地反映了明代四川方言的基本面貌,是研究明代四川方言的有效材料。 (『百度百科』「蜀语」より)

 方言辞典と銘打たれているが、体裁を見てみると、「共通語のこれこれは四川の方言でこれこれと言う」という語順になっている。“これこれ”に入るのはどちらも漢字である。つまり漢字を持たない方言語彙はここには収録されていないということだ。もっとも当て字でむりやり収めている場合があるかもしれない。語の発音を字の発音だとすればよいのである。

 なお著者李実の『序」が傑作である。『離騒』『左伝』『史記』『方言』その他、古今の文献に残された東西の方言語彙をパッチワークにして、破格で、奇天烈な文言文を綴っている。

(成都:巴蜀書社 1990年6月)