梅棹忠夫/栗田靖之編『知と教養の文明学』(中央公論社 1991年12月)所収、同書115-142頁。
言うまでもなく古代中国語の研究は、当時の読書人にとってみても不要不急のことにすぎない。知とか教養とか呼ばれるものには、一面で本来こうした性質があると思われるが、ただ生命まで犠牲にしかねないかのようなこの戴震たちの自己投入は、そこから連想される「遊芸」というようなイメージとはかけはなれた印象を与える。不要不急とも思われる古代中国語の研究に戴震たちが傾けたこれほどの情熱のみなもとがどこにあったかは、熟考に値する問題と思われる。 (132頁)
私もそう思う。
言うまでもなく古代中国語の研究は、当時の読書人にとってみても不要不急のことにすぎない。知とか教養とか呼ばれるものには、一面で本来こうした性質があると思われるが、ただ生命まで犠牲にしかねないかのようなこの戴震たちの自己投入は、そこから連想される「遊芸」というようなイメージとはかけはなれた印象を与える。不要不急とも思われる古代中国語の研究に戴震たちが傾けたこれほどの情熱のみなもとがどこにあったかは、熟考に値する問題と思われる。 (132頁)
私もそう思う。