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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

吉田純 「清代のことばの問題をめぐって」

2016年08月23日 | 地域研究
 梅棹忠夫/栗田靖之編『知と教養の文明学』(中央公論社 1991年12月)所収、同書115-142頁。

 言うまでもなく古代中国語の研究は、当時の読書人にとってみても不要不急のことにすぎない。知とか教養とか呼ばれるものには、一面で本来こうした性質があると思われるが、ただ生命まで犠牲にしかねないかのようなこの戴震たちの自己投入は、そこから連想される「遊芸」というようなイメージとはかけはなれた印象を与える。不要不急とも思われる古代中国語の研究に戴震たちが傾けたこれほどの情熱のみなもとがどこにあったかは、熟考に値する問題と思われる。
 (132頁)

 私もそう思う。

韓相煕 「19世紀東アジアにおけるヨーロッパ国際法の受容」(一) ―(四)

2016年07月29日 | 地域研究
 『法政研究』74-1~4、2007年7月―2008年3月掲載。

 日本・中国・韓国における研究史の整理((一)から(三))と、著者によるまとめ、今後の課題の提示、附・主要関係著作目録((四))。

 著者による三カ国の研究史の特徴は以下の通りである((一)より。F2-F3頁)。

 ①「日本の場合は『国際法が自然法として日本へ受容されたか』という問題をめぐる議論が長くなされてきた。初期には、『自然法』として受容されたという説が『通説』であったが、その後、『自然法』としてではなく『実定法』として受容されたとの反論が強く唱えられ、現在では、『自然法と実定法双方として』受容されたという折中的な見解(ここではさらに、『自然法』と『実定法』のどちらが優位であったかという問題があるが)が支持されているように思われる。〔後略〕」
 ②「中国の場合は、『中国にヨーロッパ国際法を最初に紹介したのは誰か』という問題と、『丁韙良はなぜ「萬国公法」を翻訳したのか』という問題が早くから提起され、長く論叢の対象になってきた。前者の問題は、1980年代後半から「最初の紹介者は林則徐、体系的な紹介者は丁韙良』という結論が支持されることになって一段落し、その後論争の焦点は後者に移っていく。〔後略〕」
 ③「韓国の場合は、『(国際法の受容に)なぜ日本は成功し、朝鮮は失敗したのか』という問題と、『国際法が最初に伝来したのはいつなのか』という問題が中心に議論されてきた。最初の『通説』では、前者については『朝鮮が示した消極的な態度』がその原因として支持され、後者については江華島条約一年後の『1877年』が支持されていた。それ以後の研究では、江華島条約を基準とし、『それ以前』、『江華島条約』、『それ以後』に時代が区切られ、特に江華島条約以前に国際法が伝来した可能性が示唆されるとろもに、『江華島条約』・『それ以後』に関しては、当時の朝鮮は『積極的な態度』を示していたという(従来の通説とは異なる)分析が増え続けている。」

 
 これを一見してわかることは、「『国際法』がどう訳されたかという」点については議論になっていないらしいことである。少なくとも言及はない。
 これは具体的にいえば「丁韙良(William Alexander Parsons Martin)は『萬国公法 (Henry Wheaton, Element of International Law)』をいかに英語から漢語へと翻訳したか」という問題である。これは以上に挙げられた、三カ国においてこれまで論じられた問題と同様に重要な問題ではないかと思えるのだが、いかがであろうか。
 もっとも、この問題がまったく等閑に付されてきたわけではなく、「いかに受容されたか」の問題意識において取り上げられ、研究がなされてきている。これは特に、日本においてであるらしい。
 この長大かつ緻密な論考の著者韓氏は、(一)の「序論」において、日本での『萬国公法』が自然法として受容されたという過去の『通説』に関する検討のくだりで、この点についても周到に触れておられる。具体的には大平善梧氏の研究「国際法学の移入と性法論」の要約・紹介である(F7-F9)。

 マーチンの『萬国公法』に関して、大平は、「我が国に自然法と国際法とを一共にして、公法論として輸入したのは丁韙良の『萬国公法』である。丁韙良は、マルチンの支那名にて、多年支那に滞在し、東洋の事情並びにその思想も理解していたので、特に公法思想を力説した様に思われる。或いは彼自ら自然法論者であったろう。彼の翻訳と原本とを対照して見ると、原著以上に公法論が力強く表面に出ている。」とする。また、「条理と合意の二元論に立つ所のホイートンの折中的立場も、丁韙良の訳文には、性法〔引用者注・自然法〕論が最先頭に出でて、殆ど性法の一元論の如くに解され」、合意(general consent)は公議と訳されたり、慣習(usuage)〔引用者注・usage〕は常例と訳されたりするという。
 (F8)

 この大平氏の議論が正しければ、もともと自然法思想で訳された(原書はともかく)訳書である『萬国公法』を受容することは、即テキストをそのとおりに読解することであるとすれば、日本のみならず中国・朝鮮においても、国際法が自然法として理解され受容されたことになるのだが、のち日本ではそれに対する反論がおこり、韓氏の研究史概観によれば、少なくとも現在の日本においては自然法としての受容という説は「少数派であろう」(F2)という。この指摘が事実とすれば、非常に興味深い。自然法的な概念・語彙・表現とで書かれたテキストを、日本の読者は実定法的に読解したということになるからである。

坪井善明 「ヴェトナム阮朝(一八〇二―一九四五)の世界観 その論理と独自性」

2016年07月22日 | 地域研究
 『國家學會雑誌』96-9・10、1983年10月掲載、同誌149-165頁。

 〔阮朝は〕外交関係に於いては、中国に対しては清国を宗主国とし、「越南国王」冊封を受け、朝貢施設を原則として四年に一度北京に派遣した。〔中略〕他方、中国以外の諸外国に対しては、「大南国大皇帝」と称し、多くの国を朝貢国として扱った。
 (152頁)

 「大南国大皇帝」という名乗りは、越南が法ったはずの中華思想および冊封体制に照らすとおかしい。“国”の主は王である。「越南国王」の如くに。そこへさらに“大”を“皇帝”の前に付けるからますますおかしくなる。そもそも皇帝は諸国の王の上、天下(全世界もしくは宇宙)を統べる存在である。そして唯一の存在である。だからそもそも二人を想定しているところから論理が破綻している。しかし逆に言えば「ヴェトナム阮朝の世界観の独自性はそこにあるといえる。
 もっともお手本となった清も、満洲語やモンゴル語の世界ではロシア皇帝を皇帝(ハン)として、清朝皇帝(ハン)と、権威において差はあれ同格の存在として認めていたが、漢語世界ではそのことは知られていなかった。

八尾隆生 「黎朝聖宗の目指したもの 十五世紀大越ヴェトナムの対外政策」

2016年07月21日 | 地域研究
 『東洋史研究』74-1、2015年6月掲載、同誌39-75頁。原文旧漢字。

 途中引かれる「裴氏戯墓誌」の文章で、漢語なら「碑文前面(また後面)」とすべきところが、「前面(また後面)碑文」と、ヴェトナム語の「被修飾語+修飾語」の、順行構造の語順になっている(注)ことが、注12で指摘されている。墓誌原文は48-49頁、注12は68頁。

 。『越南漢文小説集成』巻1に「檳榔傳」(『嶺南摭怪』所収)という作品が収録されているが、文中、「國王賜名高,因以高爲姓」というくだりがある(同巻159-160頁)。“名高” は“高名”の逆立ちではないか。訓読すれば、以下の意味となるとすればである。

  国王、「高」の名を賜えば、因りて高を以て姓と為せり。

 ベトナム語は修飾語が被修飾語の後から掛かる、完全な順行構造だから、いま指摘したこの倒置も、ベトナム語の語順にひきずられた結果ではないか。
 ちなみに維基文庫に「檳榔傳」は収録されているが、問題の箇所「國王賜名高」は、「國有賜高侯」と文字に異同がある。だが「國に高(の)侯を賜う有りて」(?)は、文意がよく解せないけれど、「名+高」が「高+侯」と順行構造から漢語本来の逆行構造へと直されていることはわかる。

聶莉莉 『「知識分子」の思想的転換 建国初期の潘光旦、費孝通とその周囲』 

2016年07月18日 | 地域研究
 出版社による紹介

 本書は、できるだけ価値判断を避けて、むしろダイナミックな歴史的現場の状況に近づくことに力を入れ、様々な要素が複雑に絡み合っていた『事実』から、知識分子の集団的思想転換に至る文脈を探求したい。この作業は、その時代の政治的仕組みを把握することに帰結する。
 (「第一章 2 研究の視点」)

 「いつ」「だれが」「何を」「いかに」の究明に徹し、「なぜ」については触れない、論じないということ。

(風響社 2015年12月)

竹内康浩 『中国の復讐者たち』

2016年05月27日 | 地域研究
 著者竹内氏は、陳子昂・柳宗元・韓愈の間で行われた論争を、「礼」と「刑」の矛盾として捉えている。「礼」(孝道、もしくは思い切ってここの復讐一事に限ってもよいが)は、果たしてその本質は何であるのか。慣習(法)であるのか、それとも宗教規範(儒教もしくはそれ以前からの)であるのか。

(大修館書店 2009年7月)

「絵空事ではない琉球独立宣言!基地問題について考えるために知っておきたい、『沖縄』の原点」 

2016年03月14日 | 地域研究
 『現代ビジネス』2015年09月21日(月)、松島泰勝氏執筆

 どこから独立するのでしょうか?/あなたが住んでいる日本からです。ですから琉球の独立は他人事ではないのです。琉球人は日本からの独立を宣言します。
 
 松島氏の該著作『琉球独立宣言』を読んだ。それが本当に琉球人の総意ならそうすべきだろうという意見しか、私のような部外者にはない。その余は一言でいえばテクニカルな問題であろう。引用したのは最後の一文だが、だから意味がよくわからない。その口調ともども。

文化大革命 - Wikipedia

2016年03月04日 | 地域研究
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E5%A4%A7%E9%9D%A9%E5%91%BD#.E6.89.B9.E6.9E.97.E6.89.B9.E5.AD.94.E9.81.8B.E5.8B.95
“批林批孔運動”条。

 この運動は、後に判明したところによれば、孔子になぞらえて周恩来を引きずり下ろそうとする四人組側のもくろみで行われたものであり、学者も多数孔子批判を行ったが、主張の学問的価値は乏しく、日本の学界では否定的な意見が強く、同調したのはわずかな学者に止まった。

 今日の頭で観れば、そういう声がわずかでもあったというところが驚きであるような、あるいは案外そうでもないような。いまならチベット問題を経済格差の問題だと言う主張のようなものかと思えば。

E・J・ディロン著 成田富夫訳 『ロシアの失墜 届かなかった一知識人の声』

2016年02月07日 | 地域研究
 英国人にしてセルゲイ・ヴィッテの懐刀であった著者が、深く食い込み関わった帝政ロシアの社会・国家・国民観が、やや主観的ながら非常に興味深い。そして量的にはそれをはるかに凌駕する事実報告および分析部分については、訳者の「解説・解題」が、そのさらなる整理・確認・要約において周到精密を極める。

(成文社 2014年6月)