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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

『西遊記』の筆者は、・・・

2018年01月23日 | 思考の断片
 『西遊記』の筆者は、自分の書く怪力乱神を、フィクションの一部、または自分の作り上げる娯楽作品で必要なパーツとして採用していたのか、それとも多少なりともその実在を信じていたのか。
 それはたとえば、宋代の士大夫が、天人相関説を本当にあるいはどこまで信じていたかという問いのようなものである。欧陽脩は『五代史記』で否定、もしくは人智ではその繋がりは理解できないという不可知論の立場をとっている。司馬光は本気で信奉していたらしい。しかし蘇軾はどうか。王安石になると方便や文飾だと割り切っていたとしても驚かない

恐ろしい話

2018年01月18日 | 思考の断片
 いま調べ考えているテーマに関して、何年も前に読んで大いに感銘は受けたが内容は自分の頭で消化しきれず、それから寝かしたままにしてあったある大先達の論著を、いまあらためて開いてみると、今考えていることとほとんど同じ方向性で、ときに個別の議論さえ同じところがある。それを見て、自分がようやくそこまで進歩したのか、それとも無意識のうちにその先達の論著をなぞったのかと、恐ろしくなっている。



DennisPeng AmandaLee ‏ @dennispamandal 1月15日のツイートを見て雑感

2018年01月17日 | 思考の断片
  阿扁在和媽媽和朋友聚餐,高歌一曲客家本色影片外流,嗜血的媒體卻大作文章! 結果台中監獄當裁判,不是打分數,而是說:不要將家庭聚會po上網。網友毒舌、外界謾罵讓阿扁病情惡化,扁醫療團隊建議出國治療,沒有意外,又再度遭到刁難! ! 台中監獄又回應說:要讓阿扁總統出國治療,除非棄保潛逃

 上のTW、「po上網」の"po"とは英語postの略だそうだが、その略しようが興味深い。ほかの例としては「po文」とも言うそうだし、poは「貼る」という意味の、漢字をもたない漢語となった感もしくは観がある。漢語のいわゆる「方言」の、漢字をもたない語彙や表現と、同列に扱ってもよいかもしれない。


中国の園林の歴史なのに古代ギリシャの庭園から始める専門書に・・・

2018年01月09日 | 思考の断片
 中国の園林の歴史なのに古代ギリシャの庭園から始める専門書にあたって驚いている。この種の驚きは、中国のイスラム教の歴史なのに『史記』「大宛列伝」の条支うんぬんで始まる専著をみたときから二度目だ。
 そして、その専門書(漢語の通史)では中国の園林が、「いつから在った」「いかに在った」「どのように(又そこから帰納して)なんのために)使われた」が周到に語られる。しかし「なぜ在ったか」がない。言葉を換えれば「中国の人はなぜ園林をつくったのか」という問いがなく、当然のことながら答えもない。
 別のある英文専著(論集)では、「中国人はなぜこのような庭園をつくったのかという問いは、具体個別の事例に即して探究されるべき問題であり、中国庭園の本質とは何かという問いと同様、簡単に一般化できる性質のものではない」と、どういうわけか最後に於かれた専論で、これは劈頭に断じている。

『学問をしばるもの』出版記念 学問の裏と表| 京都教室 | 朝日カルチャーセンター

2018年01月08日 | 思考の断片
 https://www.asahiculture.jp/kyoto/course/206f7e39-ff30-3abe-3a02-5980117a25a0

 学者は、世のなかと隔絶されたところで、ひたすら真理の探求に打ち込んでいる、そんな仕事はうらやましいな、と思ったことはないでしょうか? でも彼らは、ほんとうに自由なのか。〔中略〕学問は、時代、学統など、けっこう多くのものにしばられています。講座では、『学問をしばるもの』の刊行にあわせ、学問の裏側に触れつつ、現代における真理や自ら気づくということの重要性まで、編著者でもある講師が語りつくします。

 喧々諤々の研究会のあとの飲み会にいくと、発表者が「発表内容はそう言わなければならない学界学派内における立ち位置なのでそう言ったので、自分の本当の意見は異なる」とか、その場にいない別の学者について、学問や人間性についての批判ならまだしも(?)、「彼の今度の論文は業績数のために書いた通説どおりの視座と議論だから相手にしなくてよい」とかいう内情の交換の場だったりするのこともときにあるので、私としては正直あまり興味を感じない。

枯山水の入門書・概説書数冊を読んで

2017年12月24日 | 思考の断片
 「枯山水は象徴だ」とか「抽象化」だとかと説かれても、何の象徴ですか、なぜ自然の景観から、此は選び彼は選ばないのですか、選んだ物のどこをどう抽象化するのですか、そもそも「象徴」や「抽象化」とはこの枯山水の場合なんですかと、なにもしらぬ私はそこから説明していただきたく。

先日ある往来物で、・・・

2017年12月22日 | 思考の断片
 2017年11月20日「中村元「仏教における人間論」」から続き。

 先日ある往来物で、「ものを書けないのは人ではない」という意味の教訓の辞があった。「ものを書けない」というのは、書くための文字とともに、日常生活や仕事での主として手紙・文書作成のうえで必要な作法と書式(語彙・表現含む)とを弁えていない、よってその折々に就いてしかるべき文章が書けないという意味である(その往来物の内容から推して)。“考える”という要件は、そこには(少なくとも明示的には)ない。

信念の学問

2017年12月19日 | 思考の断片
 「この文献史料を先行研究者の誰某は斯く斯くと読むが私はそうは思わなくて然々と読む」という、中国文学あるいは中国哲学に分類される、ある論文を読んだ。それは、もともと両方の読み方ができるのか、彼方が間違っていて此方が正しいのか、それとも自身が前人未踏の新機軸をうち出しているのか。それすらわからない。ただ信念だけが吐露されている。私にはテクスト軽視も甚だしいと思える。しかしこれで良い分野らしい。筆者は高名な研究者である。
 ただ島田虔次先生ならどうご覧になるだろうとは畑違いにして素人ながら個人的に思う。吉川幸次郎・小川環樹の両先生についても。
 素人としてさらに騎虎の勢いで言わせてもらうとすれば、これは論文ではなく、見事なほどの情意文である。自身の対象に対する内在的な理解(と主張するもの)を以て論拠とする以外、論文としての装いも施されてない。そのことになんの不都合も感じてはいないらしいとはそのことについて何の釈明もないところから察した。いかにも人文科学らしく、情意文を論文と称ぶ世界らしい。あるいはすこしく客観性をともなう主観唯心論(文)か。

フロイトの精神分析理論を、・・・

2017年12月15日 | 思考の断片
 フロイトの精神分析理論を、最新のニューロサイエンスの成果をもってその正しさを証明しようとする著作を目にした。努力の方向が違うような気がするが、どうなのだろう。たとえば董仲舒の天人相関説も、やりようによっては現代物理学やその他諸科学でかなりの程度補強できるのではないかと思えるからだ。

本気なのだろうか

2017年12月14日 | 思考の断片
 「近世近代の和歌が現代の我々に解りやすいのは中世の和歌よりも合理的な精神に則っているからで、その合理的精神の由って来たる所は朱子学で、朱子学は合理的だからである」(要旨)という、たかがこれしきの長さの言説で「理」という言葉を二つの意味で使うという、じつに驚嘆すべき議論を和歌史の専門家の専著に見た。現代日本とその言語の「合理」の“理reason, rationality”と、朱子の言う理(理気二元論の“理”)は、表記する漢字が同じだけで内容として異なるだろう。
 この論法は、例えば、ヨーロッパの封建制は、日本(語)ではfeudalismの翻訳語として中国古代にやや類似した存在した風習を意味する「封建」という漢語で用いられることになったのだが、それを見た漢語話者(具体的には中国人)が、「封建」という文字を使っているから西洋のfeudalismと同じものが中国の歴史上にもあったと議論を組み立てるようなものである。それが間違っていること、言うまでもない。