この成語の大抵の語釈はこの“猿”と“馬”とを何の気なしに(としか思えない)比喩であるとしているが、本当にそれでいいのか。例:http://www.guoxuedashi.com/chengyu/38836x.html
この表現のそもそもの出典は魏伯陽の『周易参同契注』の由だが、その原文は「心猿不定,意马四驰」である。訓読すると、まずは「心は猿のごとく定まらず、意は馬のごとく四もに馳す」となるだろう。だがそれはそれしか翻訳語の“部品”がないからである。ここで定石を外して原文漢語に即して翻訳すれば(ここで念を押すと訓読とは、あるいは訓読もまた、翻訳である)、「心は猿にして定まらず、意は馬にして四もに馳す」とすべきである。
つまり直喩ではない。もしかしたら暗喩でもないかもしれない。なぜなら、そもそも直喩も暗喩も、そして比喩も、いまの私たちが使うそれらは西洋語のそれであり概念であるからだ。まずは漢語における“比興”の伝統的な語彙と概念から分析説明すべきであろう。
この表現のそもそもの出典は魏伯陽の『周易参同契注』の由だが、その原文は「心猿不定,意马四驰」である。訓読すると、まずは「心は猿のごとく定まらず、意は馬のごとく四もに馳す」となるだろう。だがそれはそれしか翻訳語の“部品”がないからである。ここで定石を外して原文漢語に即して翻訳すれば(ここで念を押すと訓読とは、あるいは訓読もまた、翻訳である)、「心は猿にして定まらず、意は馬にして四もに馳す」とすべきである。
つまり直喩ではない。もしかしたら暗喩でもないかもしれない。なぜなら、そもそも直喩も暗喩も、そして比喩も、いまの私たちが使うそれらは西洋語のそれであり概念であるからだ。まずは漢語における“比興”の伝統的な語彙と概念から分析説明すべきであろう。