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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

「心猿意馬」という漢語表現

2018年03月01日 | 思考の断片
 この成語の大抵の語釈はこの“猿”と“馬”とを何の気なしに(としか思えない)比喩であるとしているが、本当にそれでいいのか。例:http://www.guoxuedashi.com/chengyu/38836x.html
 この表現のそもそもの出典は魏伯陽の『周易参同契注』の由だが、その原文は「心猿不定,意马四驰」である。訓読すると、まずは「心は猿のごとく定まらず、意は馬のごとく四もに馳す」となるだろう。だがそれはそれしか翻訳語の“部品”がないからである。ここで定石を外して原文漢語に即して翻訳すれば(ここで念を押すと訓読とは、あるいは訓読もまた、翻訳である)、「心は猿にして定まらず、意は馬にして四もに馳す」とすべきである。
 つまり直喩ではない。もしかしたら暗喩でもないかもしれない。なぜなら、そもそも直喩も暗喩も、そして比喩も、いまの私たちが使うそれらは西洋語のそれであり概念であるからだ。まずは漢語における“比興”の伝統的な語彙と概念から分析説明すべきであろう。

文体論のない『日本霊異記』研究を手にしている。・・・

2018年02月20日 | 思考の断片
 文体論のない『日本霊異記』研究を手にしている。漢文だから漢文ということだろうか。唐のことを“隣国”と書いたり、“帝”を“天皇”と書いている点で、私に言わせればすでに漢文として変格どころか破格なのであるけれど。(年号が天皇の在位年や干支で表記されていることも含めて。)同書における天皇制の意義といった大問題を論じる前にやることは多少あるだろうと、私などは思う。

南博ほか編『近代庶民生活誌』9(三一書房 1986年12月)に、中平文子という・・・

2018年02月20日 | 思考の断片
 南博ほか編『近代庶民生活誌』9(三一書房 1986年12月)に、中平文子という女性記者が書いた、「化け込みお目見え廻り」というお目見え記事(今で言うところの潜入ルポ)が収録されている。もしかしてこれは武林夢想庵の妻だった武林(のち宮田)文子ではないかと思ったら、果たしてそうだった。
 山本夏彦翁の『夢想庵物語』では、“花柳界にいるタイプの女”としてあまり好い印象とは言えない。しかしここにある彼女の文章は、雅と言えずとも卑ではない。
 なおこののち夢想庵との結婚・離婚に続いて宮田耕三との再婚、またその間の海外での長きにわたる生活については、上島敏昭/バーバラ・ハミル・佐籐両氏による「解題」では触れられていない。

中村健之介氏が『永遠のドストエフスキー』(中央公論新社'04/7)のなかで、・・・

2018年02月19日 | 思考の断片
 中村健之介氏が『永遠のドストエフスキー 病いという才能』(中央公論新社'04/7)のなかで、モチューリスキーの言う、ドストエフスキーがみずからの作品を通じて解明しようとした、「自分という人間 своя личность」という言葉を、紹介されている(「まえがき」)。“自分”とはドストエフスキー本人を指す。
 そう訓えられて気がついてみれば、ロシア語のличностьとは不思議な語彙である。-ностьという語形が示すように、本来「(各人で異なる)人間性、個性」という抽象名詞のはずなのに、「社会における(その人の)社会的人間としてのありかた」という中間的意味を経て、「(誰彼という)具体的な人間存在」までも意味することになっている。


懐徳堂と中井履軒ふたたび

2018年02月14日 | 思考の断片
 正教の聖書の日本語訳はまだ読んだことがないな、訳したのは中井木菟麻呂という人か、というくらいの心持ちで調べはじめたところが、ニコライがギリシャ語の原本からロシア語訳を援用して日本語に訳した口述を、中井が厳密な文語文(漢文訓読体)に翻訳していったという同書の成立過程とともに、中井が懐徳堂の関係者であの中井履軒の曾孫であると知って、腰を抜かす。

やはり「明清にあらざれば人にあらず」らしい

2018年02月14日 | 思考の断片
 鄭燮板橋は封建時代の士大夫・文人の身分意識をこえて下層階級なかでも農民の辛苦に同情し彼らを愛したから良い人物であるという趣旨の(中身はそれだけではないが)の論考を見いだした。それが今を去ること20年前の論集とはいえ、さすが明清史研究界である。下部構造史観と社会経済史ですべて割り切れる、世界史の基本法則ですべて判ると自信満々の、しかし他分野の中国・東洋史研究者――たとえばいまも活躍中のある碩学――から、「他人(ひと)の論文を読まずにかってなことを言っている人ら」と、30年まえにはすでに笑われていた界隈だ。あの人たちがあまり“ホンを読めない”ことは、自分自身の直接間接の見聞から知っている。いまでも笑われているのだろうか。

「一見非常識に見えても、筋が通っていると感じた考え方」を正しいとするか、・・・

2018年02月09日 | 思考の断片
 「一見非常識に見えても、筋が通っていると感じた考え方」を正しいとするか、「筋が通っていると感じても、一見非常識に見える考え方」を間違っているとするかの選択は、論理思考の訓練不足や個人の賢愚の問題ではなく、文化的な背景をもつ、思考様式の差によるという研究が、社会心理学畑ではある
 それを聞いて(あるいはその研究に接してでもよいが)、「そんな馬鹿なことがあるか」という反応を、たとえば我が国の近隣人文系の研究者が示すとすれば、それは「『筋が通っていると感じても、一見非常識に見える考え方』を間違っているとする」、当の研究によれば東アジア(儒教また道教が歴史的に影響した文化圏、現在の国名で言えば中国・韓国・日本)〔注〕に特徴的な思考様式の、いまひとつのよき証例となるだろう。

 。北朝鮮およびその国民は該研究では調査対象とできなかったので除外されている。

 こうして見ると、シャーロック・ホームズというのはすぐれて西洋的な(ややおおざっな言い方になるが)、ストーリーだということになる。例えば:"When you have eliminated the impossible, whatever remains, however improbable, must be the truth."

 Indubitably, my dear Watson!

どういうわけか、旧ソ連時代の有名で名作とされる文芸大作映画よりも、・・・

2018年02月08日 | 思考の断片
 どういうわけか、旧ソ連時代の有名で名作とされる文芸大作映画よりも、ソ連崩壊後の現代ロシアで制作される映画・テレビドラマの映像世界のほうが、私が知識として持ち、またそれをもって想像する帝政ロシアのイメージに近いのである。古い映画はすでに色彩が劣化し、またそもそも画像が粗いということも、新作と較べるときにどうしても点が辛くなる原因であろうが、それにしても、旧ソ連時代の作品に出てくる貴族たちの姿と動作が、ビゴーの描く鹿鳴館の貴顕紳士淑女のようだとまでは言わぬものの、まるで、“キツケヌ冠上ノキヌ持モナラハヌ杓持テ内裏マジハリ珍シヤ”の成出者のように見えて、しかたがない。私の感覚がおかしいのであろうか。

「眉目」から「ものごとの端緒、手がかり」へ

2018年01月29日 | 思考の断片
 「日本虚拟货币交易所价值约580亿日元新经币消失」【共同社1月27日电】2018年 1月 27日 - 17:02

  日本虚拟货币交易所的运营巨头Coincheck(位于东京)26日发布消息称,价值约580亿日元(约合人民币34亿元)的虚拟货币之一新经币(NEM)因非法访问流向了外部。从交易所的受损额来看,超过2014年2月Mt.Gox(位于东京)曝光的约480亿日元,为迄今最大规模。Coincheck停止了虚拟货币的存取和买卖等大部分服务,截至27日也未有恢复的眉目。


 上の引用部の最後に、「Coincheck停止了虚拟货币的存取和买卖等大部分服务,截至27日也未有恢复的眉目。」という一文があるが、「眉目」(まゆと目、転じて顔、そして顔から横滑りして面子の意味へ、あるいは話の眼目・筋道また万人にぬきんでた人間)が、更に転じて「ものごとの端緒、手がかり」となるのはわからない。どういう過程を通ってのことだろう。


「文質彬彬」の意味

2018年01月25日 | 思考の断片
 文质彬彬を「文:文采;质:实质;彬彬:形容配合适当。原形容人既文雅又朴实,后形容人文雅有礼貌。」と訳している語釈をみてたまげている。
 これは、一語ごとの解釈とそれを繋げた句としての解釈の間に断絶があるのも言語道断だが、それよりこれは現代人向けの超訳なのであろうか。文言文、それも『論語』の原典の解釈なら、何晏と邢昺の注疏(どちらも本文の理解に資するためではなく中世人らしく自説のため、また注のために注をつける人だ)の内容を、現代漢語に直しただけではないか。もっとまじめにやれというほかない。
 宮崎市定御大の訳は何如と検してみるに(『論語の新研究』)、私とほぼ同じだった。アプローチ(テクスト読解の際の)が基本的に同じだから答えも同じになるのだろうと理解した。
 徂徠の『論語徴』も見てみた。「文」は礼楽のことだと相変わらずの一辺倒だが(ちなみに「質」は德行であると更にとばしている)、「野」を「野人」と解釈もしくは翻訳するのは、宮崎御大と同じである。ただ「史」は、前者は「文書作成管理係」(現代日本語に訳せば)の一方後者は「代筆屋」と、ややずれる。