goo blog サービス終了のお知らせ 

書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

中国の園林の歴史なのに古代ギリシャの庭園から始める専門書に・・・

2018年01月09日 | 思考の断片
 中国の園林の歴史なのに古代ギリシャの庭園から始める専門書にあたって驚いている。この種の驚きは、中国のイスラム教の歴史なのに『史記』「大宛列伝」の条支うんぬんで始まる専著をみたときから二度目だ。
 そして、その専門書(漢語の通史)では中国の園林が、「いつから在った」「いかに在った」「どのように(又そこから帰納して)なんのために)使われた」が周到に語られる。しかし「なぜ在ったか」がない。言葉を換えれば「中国の人はなぜ園林をつくったのか」という問いがなく、当然のことながら答えもない。
 別のある英文専著(論集)では、「中国人はなぜこのような庭園をつくったのかという問いは、具体個別の事例に即して探究されるべき問題であり、中国庭園の本質とは何かという問いと同様、簡単に一般化できる性質のものではない」と、どういうわけか最後に於かれた専論で、これは劈頭に断じている。

勉維霖主編 『中国回族伊斯蘭宗教制度概論』

2013年09月01日 | 東洋史
 『中国阿拉伯語教育史綱』と同じく、やはり紀元前1世紀の『史記』にある条支うんぬんから話が始まる。イスラム教は紀元後7世紀にならないと出現しないというのに。そのうえ唐代のまだイスラム化前のアラブ人やペルシア人商人(蕃客)のことまで持ち出す。彼らと回族と何の関係があるのか。馬鹿さ加減も極まれりというべし。
 ただ、経堂語が、元明時代の古い漢語を文法・語彙において基本としつつ、同時にアラビア語・ペルシア語の語彙(その他仏教および道教の術語の訳を含む――二語であればなぜか前後の語順が転倒している例がままある――)を大量に交えた、一般の漢語とは異なる独特の言語であることを詳しく具体的に説明してあることには、おおいに学んだことも認める。
 
(中国 寧夏人民出版社 1994年4月)