中国の園林の歴史なのに古代ギリシャの庭園から始める専門書にあたって驚いている。この種の驚きは、中国のイスラム教の歴史なのに『史記』「大宛列伝」の条支うんぬんで始まる専著をみたときから二度目だ。
そして、その専門書(漢語の通史)では中国の園林が、「いつから在った」「いかに在った」「どのように(又そこから帰納して)なんのために)使われた」が周到に語られる。しかし「なぜ在ったか」がない。言葉を換えれば「中国の人はなぜ園林をつくったのか」という問いがなく、当然のことながら答えもない。
別のある英文専著(論集)では、「中国人はなぜこのような庭園をつくったのかという問いは、具体個別の事例に即して探究されるべき問題であり、中国庭園の本質とは何かという問いと同様、簡単に一般化できる性質のものではない」と、どういうわけか最後に於かれた専論で、これは劈頭に断じている。
そして、その専門書(漢語の通史)では中国の園林が、「いつから在った」「いかに在った」「どのように(又そこから帰納して)なんのために)使われた」が周到に語られる。しかし「なぜ在ったか」がない。言葉を換えれば「中国の人はなぜ園林をつくったのか」という問いがなく、当然のことながら答えもない。
別のある英文専著(論集)では、「中国人はなぜこのような庭園をつくったのかという問いは、具体個別の事例に即して探究されるべき問題であり、中国庭園の本質とは何かという問いと同様、簡単に一般化できる性質のものではない」と、どういうわけか最後に於かれた専論で、これは劈頭に断じている。