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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

橋本萬太郎/鈴木孝夫/山田尚勇編著 『漢字民族の決断 漢字の将来に向けて』

2018年01月12日 | 人文科学
 編著者のひとり鈴木孝夫氏は「第1部第1章 文字と言語の問題について」において、日本語には同音類義語・異義語が多いだけでなく、同音衝突の原理に反して、同音語でも表記を変えることによって「微細な意味の違いを区別」し、「同音語が逆に意識的にどんどん作り出される」と指摘する。氏はその理由として、「日本人にとって言語というのは、音だけで情報が区別されるものではなく、字面(表記)も必要」であり、「見て初めて情報は完結するという仕組みになっている」からだと言う。そして、日本語とは「二つの違った、視覚と聴覚という二次元の交点に成立する言語」であり、「目という視角の次元を音声次元に加えるという例外的なテレビ型の言語」なのだと主張される(同章、13頁)。

 興味深いのでメモ。

(大修館書店 1987年6月)

小川剛生 『中世の書物と学問』

2018年01月10日 | 人文科学
 出版社による紹介

 〔一条〕兼良は時代に突出した合理精神の持ち主であって、他にも伊勢物語愚見抄を著して、古注の荒唐無稽ぶりを全否定したことは有名である。それはちょうど、朱熹が経書の注釈にあたり、経文に裏の意味を見出そうとする伝や注に拠らず、本文そのものから理解しようとする姿勢にも、どこか通じている。日本の古典研究史では、便宜上、古注・旧注・新注という区別をする。源氏物語では、〔四辻〕善成までを古注、兼良以後を旧注、新注は契沖以後となる。実は、この古注・新注といった名称も漢学・宋学のそれに由来することは言うまでもない。 (「⑤ふたたび書物をつくる――注釈書」同書104頁)

 たとえば四辻善成の『河海抄』が、和語をまず漢語で注釈するという点については措くとして、いったいにその注釈の内容が、小川氏にとっては「迂遠」で、「本文の理解に直結するとは言い難く」、「現代では衒学的、無意味」(89頁)であるとすれば、その感覚は、「河海抄の穿鑿した『准拠』『出典』によりかかることは一切な」(102頁)い一条兼良にも、同じく“動機”として、果たして共有されていたものなのであろうか。
 『花鳥余情』において「准拠」や「出典」を用いず、“朱雀院の心の逡巡を、自らの言葉で明快平易に語っている”(102頁)兼良の姿勢からは、小川氏の仰るとおり“物語それ自体の展開を押さえて注釈するという方向性”(101頁)が見て取れよう。だがそういう行き方を取る兼良の心中はいかに。

*この書の専門家による書評を求めています。博雅の士の教えを請う。出版年および翌年度の『史学雑誌 回顧と展望』「日本 中世」部分にはありませんでした。

2018年1月13日追記

 金文京『漢文と東アジア』(岩波書店 2010年8月)によれば、ほぼ同時期に朝鮮でも日本でも原文への注釈におわらず当時の自分たちの言語で漢語で書かれた原文を解釈しなおす「直解」方式が現れるのだが、儒教経典へのそれは中国からの影響(具体的にはそれ式の注釈の流入)によって解釈されることができるにしても、朝鮮については私は暗いので措き、日本ではそれに加えて日本語の古典に対する注釈もまた、それまでのまず漢語による解釈や説明を行う手順を廃してこれとおなじく現代語での一種「直解」方式を取るに至るのは、ここになんらかの相関関係を看るべきなのだろうか。

(山川出版社 2009年12月)

杉本つとむ 『江戸の言語学者たち』

2018年01月10日 | 人文科学
 「第Ⅲ章 古文辞学派と言語の学習・研究」で、杉本先生は鈴木朖の日本語の“詞”の四分類が、徂徠の『訳文筌蹄』をはじめとする漢語研究とその“字品”(=詞品=品詞)分類から来ていること(176-177頁)、また徂徠の漢語研究はのちの蘭学者のオランダ語学習に影響を与えていること(178頁)に関し、前者は、「〔国文学者の偏見は〕それを認めようとしない」、後者については、「徂徠研究家のどの学者も〔略〕ふれているものはない」、だけでなく、「蘭学とはまったく関係ないと結論づけている徂徠研究者もいるのである」と、厳しく指弾しておられるが、それは当時ほんとうで、いまも本当であるのかどうか。

(雄山閣 1987年11月)


井上章一編 『学問をしばるもの』

2018年01月08日 | 人文科学
 出版社による紹介

 「まえがき」や「あとがき」の文章にやたらに(その基準と必要性が分からぬほどに)太字をちりばめてみても、タイトルのフォント排列に奇を狙ってみても、現実とはなにも関わらない。この中で取り上げられ、嘆かれ、変化が希求される「学問」とは、そこにいる人々にとって(あるいは人々も含めて)、「しばるもの」すべてをひっくるめて「学問」なのだと思えばよいのではないか。ならば不平不満もおきまい。一つの提案。

(思文閣 2017年10月)

『コトバンク デジタル大辞泉の解説』「文選読み」

2017年12月25日 | 人文科学
 https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E9%81%B8%E8%AA%AD%E3%81%BF-143200

もんぜん‐よみ【文選読み】
 漢文訓読における読み方の一。同一の漢字・漢語をまず音読し、さらに重ねて訓読する方法。「細細腰支」を「さいさいとほそやかなるようしのこし」と読む類。「文選」を読むのに多用されたところからいう。


 文選読みが、築島裕先生の推測されるがごとくに、「難解な漢語を平易に解釈しようとした結果として生じたもの」(下掲書262頁)であるとするならば、訓読自体が日本語への翻訳すなわち日本語である以上、漢語音読派・直解派の太宰春台が、「無益ノ事ナリ」、「是ヲ止メ」よと切って捨てた(同290頁)のも宜なるかなである。築島裕『平安時代の漢文訓読語につきての研究』(東京大学出版会 1963年3月)、「第三章 訓法 第二節 文選読」。文選読みは典雅だからという弁護論は、それは訳文としての話、日本語の問題だと、春台には馬耳東風だったろう。

杉本つとむ 『語彙と句読法』

2017年12月25日 | 人文科学
 タイトルに掲げたこれ以外にも、杉本先生の日本語の句読法に関する諸研究を読んで、なぜ出版社によって、例えば漫画のフキダシ内の科白の最後の「。」が有ったり無かったりするのか、また私が他人の文章を、例えばこのツイッターにおいてカギ括弧付で引用するとき、同じく句点を、ときに省かずときに省くのか、その理由が学術的に解/分かった。
 読点についても、なぜ個人差がはげしくまた国語としてその各人の恣意に任している部分・許容度が多い・高いのか――すくなくとも英露中のそれと較べたとき私にはそう思える――も、これで解/分った。

 初歩的な読書メモ。

(桜楓社 1979年9月)

平山洋 『「福沢諭吉」とは誰か 先祖考から社説真偽判定まで』

2017年12月23日 | 人文科学
 出版社による紹介

 福澤研究では、この方は結局、西鶴研究における森銑三のような位置に置かれたらしいテクスト自身の真偽から云々されてはその上で踊る吾らが飯の食い上げになると総スカンの生埋めに幾い処遇、本が出ているではないかという反論もあろうが、評価をしないという黙殺の刑である。(権柄づくで)存在を無視すれば問題も客観的事実も消えて無くなると思いまたそれで通るのはたぶん、人文系の思惟と世界の、そこに棲むものにとってはこのうえなく心地よく素晴らしい慣わしなのであろう。

(ミネルヴァ書房 2017年11月)

伊藤漱平/中島利郎編『魯迅増田渉師弟答問集』

2017年12月22日 | 人文科学
 出版社による紹介

 魯迅の作品を翻訳するにあたって増田氏が魯迅その人に質した箇条書きの質問条項に、作者が各項の余白や上下左右の空間に朱筆で回答を書き込んでいる。質疑・応答どちらも日本語だが、驚くのは魯迅の日本語が本当に自然であることだ。そしてその言いようも(きわめて口語的で平易な文章で書かれているのだが)、本来の冗長な話し言葉とは違い、直裁・的確で紆余も無駄もない。驚くばかり。

(汲古書院 1986年12月)

Wikipedia, "Alphabet effect"

2017年12月16日 | 人文科学
 https://en.wikipedia.org/wiki/Alphabet_effect

 Loganの論文を数年前に読んでいて、あとから(つい先ほど)この項がウィキにあることを知った。であるから議論の紹介内容はこれで間違いないことは確認したが、いずれにせよ、表音文字がいかなる機能と過程をもって使用者の抽象的思考や、はてはゼロの発見にまでのeffect効果を生み出すのかの説明も証明もない。ethnocentric以下の批判は尤もである。
 「それでもどこか注意すべき議論や洞察があるかもしれないから」とあれこれ検討するいう意見をどこかで見たおぼえがあるが、自論の立証に失敗している議論や論著はそうと分かった時点で一顧の価値なしと捨て去るべきではないのか。それ以上かかずらうのは時間の無駄であろう。このような見地は、目当ての病状には効かない薬を、副次的作用にみるべきものがあるからと服用し続けるようなものである。

コトバンク 「文選読み」

2017年12月15日 | 人文科学
 https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E9%81%B8%E8%AA%AD%E3%81%BF-143200

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
文選読み
もんぜんよみ
同一の漢語を漢字音と訓 (和語) で2度読む方式をいう。「豺狼 (サイラウ) のおほかみ」「蟋蟀 (シッシュツ) のきりぎりす (現在のこおろぎ) 」などがその例で,上の字音読みが下の訓読みの連体 (ないし連用) 修飾語となる形をとる。もともと平安時代の漢文訓読から起ったもの。古来『文選』を読むときに多く用いられたところからこの名がある。

 別のある研究によれば、その出現は平安時代に遡るとする。
 この説明からは、如何にあると、何の為にあるは分かるが、なぜに斯くのごとくなったかが判らない。他の説明も同じ。