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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■キリストの十字架の死とその意味

2007年04月07日 | Weblog

 
 世の光の時間です。今月は羽鳥牧師に代わって村上宣道が担当します。宜しくお願いします。イースター特集番組、さて今日はキリストの十字架の死とその意味について御一緒に考えてみたいと思います。イエス・キリストが十字架に釘づけられたというそこには幾つかの意味がありますけれども、

 一つはですね、人間の罪の醜悪さをそれは表わしていると言えると思うんですね。 ある青年が集会の後、話し終えた説教者に、「先生、十字架の話しはあまりしない方がいいと思いますよ、あまりにももう残酷ですからねえ。醜いですからねえ。」と言った。すると説教者は、「確かに十字架は醜悪ですよねえ。しかしその醜さは十字架にかかられたキリストの醜さではなくって私たち人間の罪の醜さではないでしょうか。」と答えられたって言うんですね。どうしてあそこまでむごたらしい死に方をなさったんだろうか。それは、そうまでなさらなければならなかったほど私たちの罪が醜悪・醜いものであったということを表わしているんですね。

 二番目は神の裁きの厳しさ。キリストは十字架上で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイの福音書 27章46節)と叫ばれました。それは決してキリストの弱音を意味するのではありません。罪を徹底的に憎み、完膚無きまでに罪を罰せずにはおかない神の裁きの厳しさを一身に受けられたキリストのうめきだったんですね。まるで避雷針のように、私たちに臨むべき神の怒りがキリストの上に集中してしまったんですね。
 
 三番目は神の愛の豊かさ。私がある方から戴いた壁掛けに英語ですけれど、このようなことが書いてあります。「あなたはどれだけ私たちを愛されるのですか」と主イエスにお尋ねした。するとイエスは、「はい、これだけです」と両手を広げ、「こうしてわたしは十字架にかかってあなたのために死にました。」と答えられたという。十字架の上に釘づけられて両手を広げておられるキリストの姿は私たちを限りなく赦してくださる限りのない愛を表しています。

 もう一つは救いの確かさ。私たちが救われるのはキリストの教えやキリストのなさった行いに倣っていこうすることによるのではありません。「十字架のことばは、・・・、救いを受ける私たちには、神の力です。」とコリント第一の手紙の1章(18節)にありますけれども、十字架においてなし終えられた贖(あがな)いのわざこそが私たちの救いの唯一の根拠なんですね。その十字架を信じる時、そこに神の力が働いて、救いのわざがその人の内になされていく。十字架は私たちと深い関わりを持つのだということですねえ。

 ( PBA制作「世の光」07.04.07放送のお話しより)


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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