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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■新しいいのちを内に宿して / 水谷 潔

2025年04月22日 | Weblog

2025/1/14放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか、愛知県春日井市にあります春日井聖書教会・協力牧師の水谷 潔です。

 20年以上前のことです。私の妻はコーヒーが大好きで毎日飲んでいたのですが、妊娠すると一切コーヒーを口にしなくなりました。また知り合いの韓国人女性からは、妊娠をすると毎日食べていたキムチが嫌いになって、今度はラーメンを毎日食べたくなったと聞いたことがあります。
 これは妊娠初期に現れる「つわり」の症状の一つだそうです。新たないのちが内に宿ることで、食べ物についての好き嫌いが大きく変化することがあります。内に宿ったいのちが、そのいのちを宿した人に大きな影響を与えます。

 実は聖書も、新しいいのちが内に宿ることを記しています。新約聖書ヨハネの手紙第一5章12節はこう記しています。

 「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」

 御子とは神様の独り子であるイエス・キリストのことです。聖書はイエス様を信じた者は新しいいのちを持つことを約束しています。
イエス様を信じることで与えられるのは永遠のいのち、真(まこと)のいのちです。肉体の死を超えて生き続ける永遠のいのちです。
 そしてこのいのちは宿したものに影響を与えて、その人を造り変えてゆくのです。時には短期間で別人のように変えます。また、時間をかけてゆっくりとその人を造り変えてゆきます。振り返れば以前の自分とは大違い、ということもあります。

 おととしのこと、あるクリスチャンカップルの結婚式の司式をさせていただきました。結婚式後の披露宴では新郎がこう語りました。「私の家族は先に母がイエス様を信じて救われました。母の変えられた姿を見て次に父がイエス様を信じました。以前の父はお酒を飲んで怒ってばかりでしたが、イエス様を信じてからは穏やかで家族思いの父親に変えられました」
 
 イエス・キリスト、神の御子を信じるなら、その人は新たないのちを持ちます。その新たないのちはその人を造り変えます。

 ラジオの前のあなたもイエス様を信じて新たな自分となって歩みませんか?


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.14放送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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■セルフガソリンスタンドの秘密? / 水谷 潔

2025年04月21日 | Weblog

2025/1/13放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか、今週番組を担当します、愛知県春日井市にあります春日井聖書教会・協力牧師の水谷 潔です。

 私は自家用車を持っていて、月に1~2度、近所にあるセルフのガソリンスタンドを利用しています。自分でタッチパネルを操作して、ガソリンの種類と給油する量を選び、自分の手で給油機を握り、レバーを引いて、と最初から最後まで全部自分で給油しているのだとずうーっと思ってました。
 ところがあるテレビ番組を観て、そうではないことを知って驚きました。実はスタンドのスタッフさんは車が来たのを確認し、安全のために給油するお客さんの動きを見た上で、ガソリンが出るように見えない所で操作をしてくれているのだそうです。

 セルフスタンドのスタッフさんは、私たちの目には見えないけれども私たちを見ていてくださり、必要なものを提供してくださるわけです。私はこのことを知って、驚きながら思ったのです。
 ああ聖書が記している神様も同じだなあ、と。なぜなら、神様も目には見えませんが存在しておられ、私たちを見てくださり、必要なものを与えてくださるからです。

 旧約聖書のヨブ記34章の21節にはこう書かれています。
 
  「神の御目が人の道の上にあり、その歩みのすべてを神が見ておられるからだ。」

 神様の眼差しはいつも私たちに向けられており、私たちの歩みのすべてをご覧になっているのだ、と聖書は言います。それは監視カメラのようなものではありません。私たちを大切に思って下さる愛の眼差しです。

 一人で生きているようでも、いつも神様は共にいてくださいます。そして愛にあふれる眼差しで私たちのことを見てくださいます。さらには、私たちを愛し、ふさわしい時に必要なものを与えようと願っておられるのです。

 そうです。目に見えなくても神様はおられます。誰もいないと思っていても神様はあなたを愛の眼差しをもって見てくださっています。あなたもこの神様を信じ、この愛を受けて、神様とともに歩みませんか? 

 街でセルフガソリンスタンドを見かけたら、どうか今日のお話を思い出してください。


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.13放送でのお話しより )


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■えぐり出して捨てなさい / 福井 誠

2025年04月19日 | Weblog

2025/1/11放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? この一週間、皆さんと新約聖書のマタイの福音書を読み続けることができました。皆さん、いかがでしたか? 聖書の面白さが分かり、マタイの口調が皆さんの耳に響いてくる、そんなことを願っています。
 では今日は、「えぐり出して捨てなさい」と題してお話を致します。新約聖書マタイの福音書5章29節からお読みします。

 「もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれない方がよいのです。」

 今日は、「姦淫してはならない」 つまり性的な不道徳を戒める教えです。昨日は、「殺してはならない」という戒めを読みました。内容は違いますが考え方は同じです。
 いずれにしても外面的な行為ではない、内面的な思いの部分にまで深めてこの戒めを適用し理解していくのでなければ本当に理解したことにはならない、とイエスは言うのです。

 ですからイエスは、姦淫というのは、姦淫という行為ではなく情欲という思いを問題にするもので、そこまで人間の心のきよさを考えるのでなければ天の御国に入る心のきよさに生きる信仰には到達していないのだ、と言うのです。

 当時ユダヤでは姦淫の罪を犯した人は石打で処刑されました。ヨハネの福音書には、ちょうど姦淫の現場で捕まえられた女性についてイエスに死刑執行を求める律法学者たちのエピソードが記録されています。彼女は律法によればその場で処刑されるはずでした。ところがイエスは、「あなた方の中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」と応答し、一人去り、二人去り、結局その女性はいのちを助けられるのです。

 この時に人々が問われたのは、彼らが人生のどこかでしでかした行為ではなく思いでした。結局、ゲヘナに投げ込まれるという重大な結果は思いに対するものであると言う理解が重要なのです。そしてこのような恐ろしい事態から逃れられない私たちには、神のあわれみと罪の赦しが必要だ、ということです。

 ぜひ教会でも詳しいお話を聞いてください。


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.11放送でのお話しより )


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■殺してはならない / 福井 誠

2025年04月18日 | Weblog

2025/1/10放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 今週は福井 誠が担当しています。早いもので、1月ももう三分の一3が過ぎてしまいました。時が経つものは早いものですが、聖書に親しむこと、習熟することは、焦らず、じっくり取り組みたいものです。
 今日は「殺してはならない」と題してお話を致します。新約聖書マタイの福音書5章21節、22節からお読みします。

 「昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは、聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。」

 昨日もお話したように、この5章はイエスが当時の律法学者の教えを意識して語ったものであることを理解しておく必要があります。つまり、律法学者の教えに対してイエス独自の考え方が示されているのです。

 当時、律法学者が「殺してはならない」と語った聖書の戒めを聞いた人々は、私は実際に人を殺したことはないから、と聞き流してしまうことも多かったのではないでしょうか。それは現代の私たちも同じかもしれません。
 つまり、ここでは「殺す」という行為が問題にされていると考えるのです。しかしイエスは、外面的な行為ではなく内面的な心の思いに注目しました。ですから、この戒めの「殺す」と言う意味は、殺意を抱くこと、人に憤ること、人を馬鹿者、愚か者、とののしることも含めてなのだ、と言うのです。

 確かに、人の怖さは仮面をつけた現実です。本当は人を殺したいくらい憎んでいるのにそんなそぶりを少しも見せない人間の複雑さです。そんな現実を考えると、天の御国に入れる人というのは、目に見える部分ではない目に見えない部分で聖らかさを感じる人だと言わなくてはなりません。天の御国に入れる人はただ殺人という行為を行わなかった人だけではない、殺意という心すら抱かない清らかな人だというのは理にかなったことです。まことに、天の御国にふさわしい心を持てるように神に願いましょう。


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.10放送でのお話しより )


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■決して天の御国には入れない / 福井 誠

2025年04月17日 | Weblog

2025/1/9放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 今週は福井 誠が担当しています。今日も昨日に続いてマタイの福音書を読みます。「決して天の御国には入れない」と題してお話をいたします。新約聖書マタイの福音書5章20節からお読みします。

 「わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」

 イエスが群衆の前で語ったとされる説教の一節です。そこで「律法学者やパリサイ人の義に優っていなければ」とありますが、どのような意味でしょうか、少し説明が必要です。
 律法学者は当時のイスラエルで旧約聖書を教えた学者たちでした。5章の20節以降は、その律法学者たちの教えを意識したイエスの教えが書かれています。ですからイエスは律法学者の教えを指して「あなたがたは聞いています」と特徴的な言い回しを繰り返すのです。イエスは律法学者が語る教えを修正しようとしていたのでした。
 ちなみにその要点を簡単に言いますと、イエスは、外面的な行いよりも内面的な心の在り方を大事にすべきことを語られました。
 またパリサイ人というのは保守的で信仰熱心なグループのことです。イエスは6章で、彼らの祈り、施し、断食といった宗教的な実践例を挙げて批判を加えています。そして、本来はどうあるべきなのかを教えておられます。
 その要点を簡単に言いますと、それは、祈り、施し、断食を行うのなら、偽善的にならず真実に行うということでした。
 
 確かに、聖書の教えの精神をよく理解してこれを行う、また、良い業を偽善的ではなく真実に行うことは、信仰者にとっていのちであると言わなくてはなりません。そしてそのようないのちある信仰を生きているのでなければ天の御国に入れない、ということもよく理解できます。
 信仰を持つのなら、やはり単なる儀式や形式ではなくて、内面の誠実さ、真実さを大事にし、天の御国につながるような歩みをしたいものです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.9放送でのお話しより )


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■律法の一点一画も消え去らない / 福井 誠

2025年04月16日 | Weblog

2025/1/8放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 今週は福井誠が担当しています。「継続は力なり」、聖書を日々読み進めることで、知らずに聖書の読みが深まってまいります。皆さんに聖書を読む楽しさが身に付きますようにと願っています。
 今日は、「律法の一点一画も消え去らない」と題してお話をいたします。新約聖書マタイの福音書5章18節からお読みします。

 「まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。」

 イエスが群衆の前で語ったとされる説教の一節ですが、少し解説が必要です。
 律法というのは旧約聖書の教えと考えてよいでしょう。キリスト教徒は新約聖書の考え方を大事にしますが、それは旧約聖書を捨て去ることを意味しません。新約聖書の教えは旧約聖書の教えの土台に成り立つものだからです。

 イエスが語っていることはそのようなことです。ただ、一点一画とはどういう意味か、もう少し説明しましょう。
 例えば、日本語の漢字でも点が有る無しでは意味が違うことばがあります。「瓜」(うり)と「爪」(つめ)という漢字、「大きい」と「太い」という漢字がそうです。ヘブル語でも角を尖がらせて書く文字と角を丸めて書く文字では意味の違うものがあります。そして当時はコピー機もありませんでしたから、文書はすべて手書きの写本で伝えられました。そこで写本の筆写には一点一画の間違いも許されない慎重さが要求されたのです。
 つまりイエスが言いたいことは、新約聖書の時代になったからといって旧約聖書の教えが軽んじられることはない、それは重要なのだ、と言っているのです。

 確かに、イエスの十字架の愛の教えの素晴らしさが分かるのは、旧約聖書が語る厳しい戒めがあればこそです。旧約聖書いわば律法に定められた教え通りに生きることのできない人間を神は深く愛してくださっている、というのが新約聖書の教えだからです。

 イエスの教えの素晴らしさを深く理解するため、ぜひ旧約聖書も読んでみてください。


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.8放送でのお話しより )


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■あなたがたは世の光 / 福井 誠

2025年04月15日 | Weblog

2025/1/7放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 今週は福井 誠が担当しています。今日は1月7日です。七草がゆの日です。私は楽しみにしています。
 さて、昨日からマタイの福音書を読み進めています。今日は、「あなたがたは世の光」と題してお話をいたします。新約聖書マタイの福音書5章14節からお読みします。

 「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。」

 イエスはここで二つのものを取り上げています。「光」と「山の上にある町」です。どちらも存在感がはっきりとしています。
 光は、光が差し込んだ途端、それまでの闇を一掃してしまいます。山の上にある町も隠れようがありません。どこにいてもそれは良く見えるのです。

 先日、岐阜に行った時、遠目に山の上にある岐阜城が見えました。織田信長が居城とした岐阜城、その岐阜城の内には当時の資料が並べられていました。そして当時の山頂の様子を復元した図もあり、岐阜城の周りに様々な建物が建てられていた様子がよくわかりました。今は山の頂上にお城が見えるだけですが、当時はそこに活気にあふれた山頂の町の姿があった、というわけです。そしてその町の姿はどっからでもよく見えたことでしょう。

 ともあれ、山の上にある町は隠れることができない。信仰を持つということはそのようなものである、と言います。神を信じているなら、それは誰の目にもはっきり分かることで隠すことができない。他の人とは区別される何かを感ぜずにはいられないのだ、というわけです。しかも大切なのは、その人を通じて神を知ることができる、という点です。

 確かに、信仰を持っている人も様々です。しかし、まことの信仰者はその存在によって天の父の存在を知らせる人です。
 私が山の上に威容を誇る岐阜城に関心を持ち、近づいて資料館に入って織田信長の偉業を深く知ったように、まことの信仰者は人々の関心を引き起こし、近づくなら、まことの神の素晴らしさをさらに伝えるものを持つ存在なのです。

 神を知りたいと思われるときにはぜひ信仰を持ったお友達に聞いてみてください。


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.7放送でのお話しより )


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残念なお知らせ
  「この度、2025年11月18日をもちまして、goo blogはサービスを終了することとなりました。」とのこと。
 

 


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■あたながたは地の塩 / 福井 誠

2025年04月14日 | Weblog

2025/1/6 放送

 「世の光」の時間です。福井 誠です。しばらくぶりですが、皆さんお変わりございませんか? 新しい年になって今日は6日、様々な意味で思いを新たにしておられるのではないかと思います。今年も皆さんにたくさんの神の愛と祝福が降り注ぎますようにと願っています。
 マタイの福音書から共に読んでいきましょう。今日は、「あなたがたは地の塩」と題してお話をいたします。新約聖書マタイの福音書5章13節からお読みします。

 「あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。」

 イエス・キリストが群衆を前に山上で語られた説教の一節です。イエスは言います。信仰を持つことは地の塩になることと同じだ、と。
 塩は料理の味付けにも使われますが、当時は腐敗防止のためにもよく使われました。いずれにせよ、塩は何かに混ぜられるとその存在感をはっきりと示します。そしてそれが失われると、その大切さを覚えずにはいられなくなるものなのです。

 たとえば、私たちは今当たり前に電気を使っています。テレビやパソコンのみならず、調理器や冷暖房、マンションのエレベーター、あらゆるものが電気で動いています。そして大停電になると、普段は感じない電気のありがたみを嫌と言うほどに感じさせられるのです。イエスは、神を信じる者はそのようなものだ、無くなったらどれだけ大切な存在であったかがよくわかるようなものなのだ、と言うのです。

 確かに、神を信じ、まことの神の聖さ、愛、そして義しさに生きようとする人々というのは、争いや腐敗でごたごたした世の中においてその存在感を示さざるを得ないでしょう。そのような人々が存在することが社会の警鐘となり、人生の正しい方向性への気づきを与え、さらには物事を改革する力となるのです。神を信じる多くの人は普段は目立たないことでしょう。しかし、いなくなればその抜け穴の大きさに気づかされるような人です。

 新しい年も信仰を持つことの大切さに心を配って歩みたいものです。

 

 ( PBA制作「世の光」 2025.1.6放送でのお話しより )


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■キリストは、道であり光である / 羽鳥頼和

2025年04月12日 | Weblog

2024/11/30 放送

 「世の光」の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今週は旧約聖書イザヤ書の53章から58章の各章からお話ししてきました。

 今日は58章からお話しします。
 まず、イザヤ書が書かれた(※内容の)時代が実際にどんなであったかお話しします。

 古代イスラエル王国が南北に分裂し、北のイスラエル王国はアッシリアという国に滅ぼされてしまいます。その後、南のユダ王国はバビロンという国によって滅ぼされ、人々はバビロンに連れて行かれてしまいました。
 この王国の滅亡はユダ王国に対する神による裁きでした。
 人々に自分の罪を認めさせ、神に立ち返らせるためでした。神は人を救おうとされているのです。

 イザヤ書では、神の厳しい裁きの宣告が語られるとともに、素晴らしい神の救いのご計画が預言されています。
 実際にユダの人々はペルシャという国のキュロスという王によって解放され、帰国し、神殿を再建することが出来るのです。

 イザヤ書は、このような救いは神がなしてくださったことであると語っています。
 58章には、神によって国が復興し神殿が再建されたときに、人々が神の教えをしっかり守り、喜んで神を礼拝し、神に喜ばれる生活をすることが語られています。神に逆らい続けていた人々が神に立ち返り、神に従う人生を歩むことが出来るようになると神が約束してくださっているのです。

 58章では、神の教えを守り行い、神を礼拝し、神に喜ばれる生活をすることを「道」と語り、その道を歩むことを「光が輝く」と表現しています。

 イエス・キリストは「わたしが道」であると言われ、「わたしは世の光です」と言われました。
 それは、イエス・キリストこそが私たちを、神の教えを守り、神を礼拝し、神に喜ばれる生活をすることの出来る者に、変えて下さるお方であることを教えているのです。

 明日は日曜日です。教会では神に礼拝をささげます。ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。


 ( PBA制作「世の光」 2024.11.30放送でのお話しより )


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■神の沈黙 / 羽鳥頼和

2025年04月11日 | Weblog

2024/11/29 放送

 「世の光」の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。

 今週は旧約聖書イザヤ書の53章から58章の各章からお話ししています。
 まず、イザヤ書が書かれた(※内容の)時代が実際にどんなであったか、お話しします。

 古代イスラエル王国が南北に分裂し、北のイスラエル王国はアッシリアという国に滅ぼされてしまいます。そのアッシリアは南のユダ王国にも侵略してきました。その時、ユダ王国は何とか滅びずに済みましたが、その後、バビロンという国がユダ王国を滅ぼし、人々をバビロンに連れて行ってしまったのです。そのような時代(※がやがて来ることを警告して)にイザヤ書は書かれました。

 このような王国の滅亡は罪を犯しているユダ王国に対する神による裁きでした。
 この神の裁きの真の目的は、人々に自分の罪を認めさせ、神に立ち返らせるためでした。
 神は人を救おうとされているのです。
 イザヤ書では神の厳しい裁きの宣告が語られるとともに、素晴らしい神の救いのご計画が預言されています。

 今日は57章からお話しします。11節で神は当時の人々にこのように言われています。

  「わたしが久しく、黙っていたので、わたしを恐れないのではないか。」

 当時、人々は神が長い間沈黙していると考えていました。実際には神は国を裁いておられたのに人々はそのことを信じようとしませんでした。それで預言者イザヤを通して神は(※前もって)語られたのです。

 戦争や災害が繰り返されている現代においても神は沈黙しておられるように思います。しかしそうではありません。今も神は生きて働いておられ私たちを愛しておられる、と聖書は語っています。

 そして聖書は真実な「神の沈黙」を語っています。イエス・キリストが十字架につけられて死なれた時に神は沈黙されたのです。義(ただ)しい人であり神の御子であるイエス・キリストが冤罪(えんざい)で死刑にされたのに神は黙っておられたのです。
  それはイエスにすべての人の罪を負わせるためでした。そうしてすべての人に救いを与えるために神は沈黙されたのです。


 ( PBA制作「世の光」 2024.11.29放送でのお話しより )


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