ふうるふうる・たらのあんなことこんなこと

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『「おじさん」的思考』(内田樹)

2006-03-02 23:05:59 | 本や言葉の紹介
 最近刺激を受けた本に『「おじさん」的思考』『期間限定の思想(「おじさん」的思考2)』(内田樹)があります。たとえば、


 必要なのは「知識」ではなく「知性」である。
 「知性」というのは、簡単にいえば「マッピング」する能力である。
 「自分が何を知らないのか」を言うことができ、必要なデータとスキルが「どこに行って、どのような手順をふめば手に入るか」を知っている、というのが「知性」のはたらきである。(中略)
 自分がこの社会のどこのポジションにいて、今進んでいる道はどこへ向かっており、その先にはどのような分岐点があり、それぞれの分岐はどこにつながっているのか。それが分からないものにマッピングはできない。
 マッピングができないということは、主体性が持てないということである。
 というのは、マッピングというのは、「自分がいる場所」、つまり「空間において自分が占めている場所」つまり、「他の誰によっても代替不可能な場所」を特定することであるからだ。(中略)
 主体性とは「他の誰によっても代替され得ないような存在で自分は在る」という覚知とともにしか成り立たない。
 そのためにはマッピングが不可欠である。
 そして、マッピングのための問いとは「私はどこにいるのか?」「私は何ものであるのか?」「私は何ができるのか?」といった実定的な問いではなく、「私はどこにいないのか?」「私は何ものでないのか?」「私は何ができないのか?」という一連の否定的な問いなのである。
 学校教育とはほんらい、このような否定的な問いを発する訓練のための場である。
 自分が「何を知らず、何をできないのか」を正しく把握し、それを言葉にし、それを「得る」ことのできる機会と条件について学び知ること、それが学校教育で私たちが学ぶことのほとんどすべてである。
 それさえ提供できれば、すべての場所は「学校」である。



 いろいろなテーマそれぞれに「やっぱりそうだったか」と「なんか変」があちこちにみつかって、これが私にとってはおもしろかったです。